テレビゲーム嫌い

ある雑誌にもそんな言い方がでていたし、ある学校ではゲーム脳とかいうのを徹底的に普及啓発しようとしているらしくノーゲームデーなる設定さえもあるという。
ゲームではなく、ちゃんと知恵と工夫を伴って自分の力で、あるいは、子ども集団の力で何とかすることを学んで欲しいと書く人は多い。それが生きる力だと言うのだ。
どうもこの手の言説には恐れ入る。苦手なのだ。問題はゲームに打ち込み依存してしまう性格ではなく、そうせざるを得ない構造の方だろう。既に、子どもたちの性癖や傾向としてではなく、コンピュータや携帯電話が生活に入り込んで、いや、電話や冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、マンガ雑誌のような機器やメディアが生活基盤として成立している以上、ゲームを選択する子どもは特定任意ではあり得ない。依存というその状況をどう克服するかであって、ゲームを遠ざけることではない。危険だろうが、何だろうが、原発だって、ダムだってちゃんと存在する。状況を分析して、問題がどこにあるのかを議論し、問題も踏まえて現状をよく捉えておくべきだろう。
釣りだって同じである。ゲームと同じ感覚で楽しんでいても釣りだったらいいのか。自然の中でやっていれば少なくともゲームとは違うだろうと言う人もある。いや、同じである。そこに横たわるストラテジーもタクティクスも、それを実現するためのネゴシエーションも同じことだ。自然と屋内を分けるものは単に場所に過ぎない。自然のなかにあったところで、自他の関係性を同じにしてしまえば、何も変わらない。自然の方がいいという無反省な価値観だけで川に立っていても、パチンコ屋であらゆるテクニックを駆使するおじさんとたいして変わらないのだ。
そういやI氏と、パチンコの攻略本にでてくる人はよく似ているなあ。