横浜事件実質無罪

免訴の判決を得ていた横浜事件が刑事補償の対象となった。これは、事実上の無罪判決で長い間冤罪を晴らすために努力してきた遺族や関係者の積年の宿願を果たすだけでなく、戦前の思想弾圧を総括した歴史的な判決になったと考えていいだろう。
横浜事件と言いながら、横浜で起きたことは何もない。横浜の特高警察が動いたためそのように言われているだけで、元々は、富山県下新川郡泊町にあった紋左や三笑楼などで、当地出身の社会思想学者、細川嘉六が同級生と懇親したり、親しかった編集者にお礼に食事していたことを非合法化されていた共産党再建謀議である「泊会議」としてでっち上げられ、事件化したものだ。特に、取り調べの中で出てきた紋左の庭で撮影した写真は有名で、それこそ動かぬ証拠としてでっち上げの槍玉に挙がったと聞く。この写真は現在も紋左に飾られている。
当時、泊の人々も取り調べられたようだが、元々リベラルな気質のある泊の町衆、権威張ったものが嫌いである。紋左の女将がきっぱりと否定した話は有名だが、他の誰に聞いても細川を擁護するわけではなく、なかったことをあったと
喋るものはなかった。事実はどうかはわからないが、子どもの頃からその町に育ったボクはそのように聞かされていた。
しかし、その話も全く風化している。ようやく、紋左に石碑ができたが、ちゃんとだれかが語り継いで行かなくては結局また権威になびく、そして、思想統制が水面下で着々と進んでいく。大きな産業も、今では華やかさもすっかりなくなり、過疎地域自立促進特別措置法( 過疎法)の改正で過疎地域の指定さえ受けた寂れた町になったが、物や金がなくても権威になびかぬ独立自尊の気風だけは失いたくない。
子どもにもわかりやすく、泊事件について書く人が出てこないといけないな。って、ボクがやればいいのか。
昨年の12月に紋左を訪ねられた方のブログを発見。
酔流亭日乗:横浜事件端緒の地