フライの雑誌64号より

「釣りを学校内外での教育にとりいれることについての研究」というのを卒論として取り組んだ人の文章が載っていた。釣りをとりいれるという表現にはちょっと違和感があるが、まあ、そういうことを本気で考える人がでてきたのは、おもしろいことだろう。
ただ、気になったのは、
「釣りは楽しいからやる遊びである。しかし、釣りを通じて学び、考えていけることもあるのではないだろうか」<楽釣会のホームページより>
とあって、これはかなり気になった。最近の大学生世代のある種の考え方の典型がでている。
よく中学生くらいの連中が自分のことを言うのに、「勉強面も、スポーツ面も、がんばっていきたい」といった表現をする。そういうディメンションが自分のなかであるわけはない。それは、教師というある尺度から見たもので、その見え方によって自らを分化させている悲しい姿の現れだと、ボクは思っている。
この引用もよく似ていて、「遊び」「学び」を別のことのように表しているのだ。そして、それを釣りと結びつけることを反語的であるようなレトリックを使っている。
釣りが楽しいのではない。釣りがもたらすもの、釣りによって辿り着けるものが楽しいのである。それを学びという。アクティビティとプログラムの区別がつかない人と同じだ。プログラムの目的に会わせて、アクティビティが適切に構成される。ここでは、釣りをいうアクティビティをプログラムにすり替えた表現になってしまっている。
でも、この文章の出典サイトを探したのだが、見つからない。しっている人があれば教えてください。海洋大学の学生さんらしいです。