自由研究

自由研究っていうと、親を最も憂鬱にするものかもしれない。
あのまとめかただけは何とかならんかと思うくらいに野暮ったい。学校らしさを保存しているのはいいのだが、これだけさまざまなメディアがあふれている時代に、あれだけはちびまる子ちゃんの時代と同じ。
サイトを作ったり、DVDやCDRなどでアーカイブを作ったり、動画やなんかを多用しながら研究することもそう難しいとは思えないし、何よりも研究発表のファイルをプレゼンテーションソフトで構成してきたなんてことは全く不可能じゃない。
大きな西洋紙に書くスタイルはもともと学会で使われていたプレゼンテーションの方法だったのだが、その学会の方では、パソコンによるプレゼンテーションに完全移行している。そうしないとせっかくの研究の共有レベルが著しく低下してしまう。
もっとも、本当はいろいろ書きつづったノートの方が重要で、データを整理する前のマテリアルの部分に、子どもたちの学びの「ほんとう」が現れる。
時々そういう発表会のようなのを見に行くが、その「ほんとう」の質がかなり低下している。結論の見えるものをうまく整理したに過ぎない、そんな研究というか、まあ、そういうのは「まとめ」って言うんだろうけど、そんな陳腐な「それらしい」ものが多い。
そんなことを考えていたんだけど、ある人のサイトを見たら、こんな書き方があった。
ぼくのそら日記から。

事実や事象だけを見ても、その子の感じてきたことや過ごしてきた空気や時間は見えない。
このブログの作者は、小学校の先生なんだけど、すぐれた実践家として、学校現場のみならず、親や地域からも評価が高い。その彼が、こういう視点をもっていることは当たり前なんだけど、そういう意識があるから優秀なのだと思わせる。
表現の背景にあるものをどうつかまえられるのか。空気とか時間、そういうものでつかまえようとしている、そんな授業の在り方を、○○教育センターなんてところの指導主事たちは考えたことがあるのだろうか。