小学生のブログ

最近は珍しくなくなってきたけど、おじさん世代にはなかなか疎ましい書きぶりもあって、ことばが乱れているとかそういうこと以前に、表現メディアが形式を生んでいく現場を見ているようでおもしろい。
特に、どこかで指摘があって心にかかっていたのが、小中学生は学年を書きたがるという傾向。言われてみるとそのとおりで、子どもたちには1年、2年の差が大きな社会環境、構造の違いとして現れている。おじさんになると、まあ、1年、2年(笑)どうってことない。
内容も少し興味があるんだけど、多くは学校ネタ。場合によっては、独善的な部分もあって、これはきっと他人との差別化を生むための道具になっているらしいことを感じる。
そういうのは学校の体質にしばしばあって、「どこでもやっていないことを示す」アドバンテージの在り方としてある。どこでもやっていることのなかに本当の意味での意図的でもない教育が含まれているようでもあるが、先生方ってそんなのはあまりお好みでなく、サムシングエルスや花火が好きなんだね。だから百マス計算やっているのが先進的でトレンドを捉えた正しい教育という理解さえ保護者に作ってしまっている。あれ、学校の体質の反映だよ。
それで、小学生のブログ並と思えるような朝日新聞の記事に出会った。あとで紹介したい。陳腐な論説にはどうも最近の記者のレベルの低さが示されているようで、読解力がないとするOECDの調査にも首肯できるのである。新聞記者って、受験的偏差値的ヒエラルキーでは猛禽類でしょうが。今朝の12版▲です。ブラックバスのこと。探してみてください。命の序列化を問題にしていることばを、命の大切さに無自覚と捉えている。酷いモノだ。
本文は以下の通り。一部抜粋。朝日新聞2004年12月12日日曜日12版▲


(前略)
 バス釣りが好きな中学生のメールが気になった。
「地元の小学生と一緒に駆除したといいますが、小学生たちに駆除を手伝わせるなんてひどすぎる。命の大切さを学ぶところなのに、それをやらせるなんて可哀想です」
 心優しい彼にとって、バスの駆除は命を宇舞うことで、バスによって絶滅させられるメダカやフナ、タナゴなど在来種の命は見えないのだ。
(中略)
 あの中学生は、トンボやチョウを追い、タンポポを摘んだ経験があるのだろうか。
 中学生は「命の大切さ」が在来種であるとかないとか、肉食であるとかないとかで軽重が付けられていいものかと問いかけている。その問いかけを曖昧にしたまま、未明の子どもたちに押しつけるように駆除に参加させるべきではないと嘆き、「可哀想だ」と言っているのである。
 この記者こそ、掌で暴れるバスを、死んでいく、朽ちていく、腐敗していくバスを想像できないのか。イラクがどんなに非道であろうとも、人である。命である。どんな命も失われていいものは何一つないのだ。その問いかけに答えられない人が医療部の記者であるとは、彼は牛を食べたこともないのか。