駅前のショッピングビルで

エスカレーターに乗ろうとしたら前を女子高生2人にふさがれた。とびきり慌ててもいないが、それでも先に行きたかったけど、あんまり空けようという気もなく、そのうえ、クリスマスイブの日だったので、どうせ行ってもあと数階と放っておいた。
すると、がちゃがちゃと荷物を抱えたおばさんが、女子高生の真下まで来て、
「本当はね、右側空けるんだよ」
と叫んで強行突破した。女子高生はすぐに避けたが、つい言葉を出した。おばさんの言い方をなじった。
「汚い言い方するんじゃねえよ!」
女子高生をかばう気もなかったし、その女子高生がむしろボクに気圧されて逃げていって、その後、「私なんか一回も空けたことないしー」なんて叫んでいるのを聞くと何だコノヤロと猪木になるが、そんな女子高生をかばう気持ちよりも、ただ「空けていただけますか?」と言えばいいところ「本当はね」などと常識をかざしてそのうえで自らの正当性を主張するように突破するやり方が気に入らなかったのだ。自分の気持ちだけで十分じゃないのか、ボクは最近そんなことをよく考えるようになっている。
自分の気持ちと関係のないところで進行する法律上のプロトコルにかみついてみたり、自分のシンパシーを正当化するためによその権威を引っ張り込んで権力にしつらえたり。
「ファンのために」と繰り返すプロ野球選手も何だかそのおばちゃんに似ているように思えるし、「市民が」と口に出したり、「県民の発展」とかいうわけのわからないものを構築しようとする為政者の存在も、おばちゃんに攻撃したボクのモチベーションだったかもしれない。
ちなみに、エスカレーターを空ける場所に、ほんとうもくそもない。東京では右、大阪では左(逆か、どっちでもいいけど)とか言うが、急いでいる人に譲ることだけが優先課題で、大都会の喧噪ならいざ知らず、人の少ない地方都市である。十分に時間も場所もある。
それにしても、女子高生の「最悪っ」という言葉遣いは耳障りである。先日、朝日新聞の投書欄に書きことばで堂々と書かれていたのには驚いた。「まじっ」「うそっ」と同様、Xを使ってわざわざ入力するようなことばでしか驚きや感情の起伏を示せないのは、一体、どんなものなのだろう。もっとも、今朝、ボクは亀和田武が使った「うろん」が思い出せなくて辞書を引いた。ああ、そうか、そうだったな。ことばとは偉大なものだ。感情以上に複雑に精緻な表現を持っている。
「ことばに言い表せないような感動」は絶対嘘だろう。表現を伴って初めて深く普遍化するものがある。「言い尽くせない感動」の方はあるだろう。今朝の朝日新聞の投書欄の「若い世代」特集は、何せ腹が立つほど稚拙な感情と論理の並列であった。朝日の意図がわからない。それで、こういうことを書いたのかな。