難しいものだ

http://d.hatena.ne.jp/oozora/20050219id:oozoraさんがけっこうな嘆き節。
先日の事件でもそうだったけど、「ひきこもりになった少年がゲームばかりしていた」そこから、ゲーム=悪という論法が生まれることがおかしい。論理的に考えてみろ。「とにかく家にいたくない少年がキャンプばかりしていた」と書いたときには、むしろ、健全な方向が見えてくる。それは、キャンプにある刷り込まれた価値があるからだ。確かに、「家にいたくない」という気持ちを自然体験がほぐしてくれることもあるだろう。と思った人は完全に既成の価値観に溺れている。「キャンプ」を「公園でテントを張って寝泊まりするようになった」と言ってもこの論理は通用する。それでも、健全な価値を感じるかどうか。
ひきこもった少年が向き合えるものとして、ゲームやパソコンは当たり前のものだろう。「読書ばかりしていた」「映画ばかりを見ていた」そんな風に置き換えてみるといい。脈絡の違和感がいよいよ浮かび上がる。
こういうのが多いんだよね。
「学力」の問題についても、「基礎・基本」の充実という流れがむしろ「生活科」や「学校週5日制」、そして、考える力の根元となる処し方を学ぶ「総合的な学習の時間」の導入につながっていることを多くの人はよく知らない。三角形の面積の公式をすらすら言えることが「学力」と思っているのだ。それは、知識であって、ブリ大根で言えば、大根である。未だ調理されていない。それをどうブリ大根にするかは、これまで各教科のなかで意図が不明確なままで育まれていたものを、総合的な学習の時間として意図的・計画的な場所で明確な教育計画のもとではっきりとした力として育てようじゃないかということだったのだ。
しばしば、こういう議論はあって、旧軍によって人は上下関係とか社会構造などをしっかりと学んだのだなどという人がある。それは、もともと旧軍の目的ではなく、結果的に生じた状況に過ぎない。そうしたものに真っ当な評価を下すことはすり替えでしかない。教科を通して育まれている意図的・無意図的なものも同様で、総合的な学習の時間が目指すものについては、多くの教師が教育計画に見えない形でありながらも実践をし、向き合って、意図的な働きかけをなしてきた。しかし、それでは多くの人々に「見えないけれどもあるんだよ」と金子みすず流の共感を求めているだけで、実感を伴わない人にはまったく理解の外にあった。そこで、そうした教育活動を思い切り明確にして、躊躇しながらも、そうした活動の重要性を、特に、学校だけでなく、全人教育としての生き方の基礎・基本であると認識していた教師たちがいよいよ目的をもって実践できることを、より多くの人々に説明し、理解し、地域や家庭の未来の問題として向き合っていただける機会になっていたはずなのだ。
これを退行させたものは何なのか。
学校がコンサバ化している。学校はリベラルの砦ではなかったのか。左翼的な党派制からも、右翼的な権威からも遠いところで、子どもたちが自らの生き方を学ぶ場所であり、それに寄り添う教師像がボクにとっての学校である。イデオローグ化し、一人歩きする「学力」と「学校」にどういう戦略が敷けるのか。これからのボクの課題になってきたように思う。