ゆとり教育の誤謬

出版ダイジェストってのが時々送られてくる。おそらく、農文協からリストが流れているのだろう。まあ、それはいい。晶文社、ミネルヴァとの三社連合特集版で、どの出版社もご贔屓にしている方なので、楽しみにしている部分もある。
今回の巻頭は、珍しく違和感がある。いつもはなかなか感心するが、今回はまったくだめである。
「今、子どもたちに何がおこっているのか」と題する佛教大学教授教育社会学原清治という人のコラムである。案の定のゆとり教育への批判、そして、二極化による社会的不平等の拡大である。まだ、こんなことを言うのかと思っているが、面倒なので、あんまり細かいことはつつかない。
だけど、二極化による社会的不平等は、構造主義マルクス主義の一思想形態であったように、この考え方による批判は、結局のところ学力を学歴で処理してしまうことに対するルサンチマンという意味で、その中に取り込まれている。二極化による社会的不平等が起きるからゆとり教育ではだめなのだとする論理は、結局、詰め込んでも、基礎基本を充実しても不可避のことで、そもそも教育に平等を持ち込むことが論理的誤謬ではないのかとさえ思える。
例えば、学力の行き着く果てを、例えば、東京大学理科三類に求めたとすれば、結局、その定員が生徒数に一致する以外に払拭する方法はない。定員のある高校受験に対して、むしろ、試験を受ける前に峻別し、受験校を振り分けて出来る限りのロスをなくそうとする「15の春を泣かせない」進路指導が、15の夏休み前を泣かせてしまっている状況はもとより、そもそも定員外になれば合格できないことに向き合うことを遠ざけてしまっている。ゴール付近で後続を待ってみんなでゴールラインを切って、競争しない平等なレースなどと平気で誤謬をまき散らしている最近の平等、否、均等主義的な傾向によく似ている。
あんまり、書かないつもりだったのに、書いてしまった(笑)
原氏は、ゆとり教育をこう書いている。

そもそもゆとり教育の本質は、勉強を強制しないことであり、そこには子どもたちがやる気になるまで待つというねらいがある。そして、教師は子どもたちをあくまで支援する立場へと変わったのである。
こういう言説を持つ人が、教育社会学者であることが不思議でならない。ゆとり教育の本質が、勉強を強制しないことなど初めて聞いた。そもそもで言うなら、詰め込み教育の弊害で心を十分に育てられない子どもが増えている。これでは、知識があっても、勉強はできても、人として十分に社会性を育んで、よりよく豊かに生涯を生きることができないのではないか。そのためには、体験を重視することも大切だし、何よりも、子どもたちの学びそのもの、つまり、生き方を育むことに寄り添うような教育が必要であり、その場合には、これまで何でもかんでも憶えよ、身に付けよとして子どもたちに注入してきた面を改めて、自らがよく生きようとする子どもたちの根源的な「やる気」(というよりは、生き方への意志なんだけど)を、「これまで以上に」(支援という立場への転換は戦後一度もない。もともと教師の役割、機能はそうであった。)向き合いながらやっていこうじゃないか、そんな考えであったはずだ。
全く世間の風潮に乗ったこういう学者が、安直に「子どものために」とか言いながら自分が向き合うこともせず、子どもを社会化のなかに投入して、挙げ句、「この子には○○させた」と言い切る人たちのご機嫌を伺っているのだ。
この人は確実に戦略と戦術がわからない人だ。政策としての「ゆとり教育」を、授業の実際に起きているいくつかのエピソード、あるいは、うわさ話で批判している。戦術的に破綻したサッカーのゲームで、決勝点をファンブルしたキーパーに責任をなすりつけるのと同じ誤謬である。
結局、学者なんて、勉強にカタルシスを求めた社会的弱者のなれの果てなのか。そうではないと思うが、こんな人が幅を利かすようになっているのだろうか。皮肉なことに、最近の教育的言説で唯一冷静に、今ここで言う戦術、戦略をふまえた批判を行っている苅谷剛彦の研究を引用して語っている。しかし、それは、学校でではなく、教室で何が起きているかにとんでもなく鈍感な人が、政策、施策、学校、教室、子ども、教師について深く洞察することなく、ワイドショーのコメンテーター並みに虎の皮を借りているだけだ。虎の皮はしかし、使い方を誤って、ドラネコにさえ見えない。