子育ての外注

子どもをいろんなところに預けて、泳げるようにしたり、何かを身に付けさせたりとそういう風潮に、「子育ての外注」と朝日新聞の投書欄に掲載された方があってた。その情況そのものは、ずっと前にイリッチがソーシャライゼーションの概念で明らかにしているんだけど、おもしろいのはそれに対する反論。42歳というから進歩主義の激しい時期に小学校生活を送った人から、自転車に乗ったり、逆上がりしたりすることができなくって父に教えられたが、うまく教えられず結局いらいらした父に怒鳴られたことが嫌な記憶として残っているとかいう感じの話。あんまり正確ではないかも知れない。
「子育ての外注」と言っている部分の、いわば成果の部分を問題にして、成果がないような教育的な活動は教育ではないと言っているような感じなのだが、なるほど、奇妙な合理主義の時代の人の反論だなと思えた。
うまくいこうがいくまいが、そうやって子どもとかかわることそのものに教育的な意味があるんじゃないかという最初の投稿者に、そうは言っても、結局自転車に乗れなかったら何にもならないと反論者は言っている。意外によくありがちな議論だが、教育とは何かについて大きな問題を持っているようにも思う。
チューリップテレビで制作した「蒼のシテン」はまさしくこのあたりを突いていて、その意味で非常におもしろいドラマであった。
逆上がりもできなかったし、二重跳びもできない。跳び箱も走るのもだめなボクでも、小学校4年生で初めて自転車に乗れた夏の夕暮れをよく憶えてる。近所のたくみちゃんに教えてもらった。家に帰ると「ぼくのゴクウ」をやっていた。あっさり乗れていれば、4年生になっても乗れないトラウマを抱えることはなかったが、それでもあの夕暮れは記憶になど残るまい。
教育とは何か。成果であるとすれば、多くの人々は敗北者になる。