天災

アメリカのハリケーン、台風14号でもそうなのだが、少し気になることがある。天災は避けようのない被害であるという認識がどこかにある。それだからいよいよそんな気になるのだが、被害を受けられた方々が国、県、行政府の対応を呪うのである。
防災対策の不備はある。ニューオーリンズの被害では、市長は最初から政府を呪ったが、堤防でしか守りきれない町を放置してきたわけだから、まずは不明を恥じるべき。(もちろん、恥じていたはずだが報道されなかった)崩れた我が家を見て、「国、県」と叫んだ九州の被災者があった。選挙期間中でもあるし、お気持ちは理解できるが、さて。
ジョンソン大統領の時代に福祉予算を投入しすぎて、むしろ、地域社会の互助のかたちが失われたとの批判があるという。何かしらか通底したものを感じた。国際自然学校の佐藤校長だったかな、事故は起きるものと考えておく、と話しておられる。そこから先がいわば知見の果たせる部分だ。
帰りがけに、わずか人口3万人の町を通過するのに、1本しかない幹線道路が自然渋滞する。道路脇の工場への導入路はなく、右折、左折が1車線の幹線上に頻発する。交差点ではない箇所の道路交差で右折のため、後方の渋滞を生む。これは少なくとも、道路行政が何をやってきたのかと批判を喰らってかまわないことのようにも思えるが、よほど鈍感なのか、あるいは、それを市街化の度合いと見ているのか、対策は後手どころか、無策である。新しい道も生まれるが、その渋滞ポイントの手前。いよいよ渋滞は加速する。
天災への対応への過度の期待と、日常的なものへの呆れるほどの鈍感さ。この照度をどう測ればいいのだろう。