蒼のシテン〜ひと夏のつぶやき〜

昨日、オンエア。
携帯に何件かの着信。たぶん、エンドロールにボクの名前を見つけたからだろう。
いくつかの感想には違和感をもたれたような印象のあるものがあったんだけど、実は首をかしげさせるように作られたドラマで、なぜそんなものを作ったのかというとその先を考えて欲しかったからだ。
このシリーズの通底するテーマは「ずれ」である。誰も悪意がなく、事件も、事故も、アクションもないけれど、そこに気づきやゆれが生じているように作った。むろん、気づきはドラマとして仕組まれているのではない。視聴者に気付きを促すように作ってある。しかし、そこまでの訴求力がなかったのだとしたら、残念だが力不足だったか。
父の存在がつかみどころがない。このシリーズの影の主役である。前作のことなど知らなくてかまわないが、最近のドラマのように一同こぞって感動するようなつくりにはしていない。
宮沢賢治の小説に「不在の父」というアンビバレンツな存在を見出したのは吉本隆明であったが、むしろ、ここではその逆で「存在している父」とでも言えるような「見えていない父」がある。ほぼラストに近いシーンで、車中で主人公のアキオの父が「ご苦労様」といい、アキオが「え、何のこと」と返す。父にしてみれば、安っぽい正義感であったとは言え、何となく男気を出して祖父に付き合ってくれたアキオに対するねぎらいがあったのだろうが、アキオにはそのことがぴんとこない。アキオと父の悪意なきすれ違いがここにある。
この土地で生まれ育ったはずの父トシアキと、たまに訪ねるだけのアキオ。そこに生まれた「地域社会」のずれがじつのところ、一番大きなドラマになっている。視聴者は空かされたように感じるかもしれない。それも当然で、盛り上がり、感動を高めるような場面で、このドラマは奇妙にそのタイミングをずらしているのだ。
物語は緻密に計算され集約されているが、そこまで見えるにはよほど集中してみないといけないので、家庭の視聴では難しかろうなあ。
父とアキオの間のディスコミュニケーションが何に依存していたかで、物語の見え方は変わってくる。ノスタルジックな話ではないことは少なくともわかってもらっていると思う。
撮影された場所については、感傷ではない。生きている地域、そして、アーカイブされた地域。人、くらしを今という軸で切り取るのではなく、未来と過去と混淆しながらそれらがフラットなものとして示せる場所を探した挙げ句の選択だ。学校のシーンは殊更に印象的に映る。子どもの姿を失った学校。それでも地域の人々の何かの拠り所になっている。しかし、そこには正直残滓しかない。何かの記憶や追憶、心情に頼らなければ、そんなものなどすでに過去のものとして捨てられてもいいのかもしれない。しかし、だからといって価値がないとは言い切れない。何かの支えになっているには違いないのだ。そこに地域の姿がまたしても見えてくる。何を守ろうとするのか、守ろうとしているのは何か。実際に子どもたちが飛び交う姿は、対比として使われた。初期案にはなかったが、学校がなぜすばらしく生きているように感じられたかを示したくて追加した。
こうやって作品の説明をしないといけないようでは仕方がないが、批評は有り得るだろう。3つのシリーズをどこかで総括しなくてはならない。それは、不遜ではあるが、ボクの仕事だ。表現者に任せるわけにはいかない。
今後、短編4本がリリースされるが、こちらは別編集だけでなく、全く別の映像を使って構成も全く別の話だ。いい出来だと制作者が話していた。
それにしても、落合扶樹はいい。じいさんの演技でいよいようろたえた目が光った。もう会うこともないかと思うと、それが残念だ。じいさんはかつて「強力伝」をNHKのラジオドラマで演じた人。あの縁側でその話をした。もう1回、そのことをもっともっと話したかった。
撮影時の風景は、ギャラリーのページから。長男が数カ所写っている。最後の記念写真には入り損ねた。
ところで、過去の2シリーズを収めたDVDがなんかの賞をいただいたらしい。