笑える朝日新聞

まさか、GPファイナルを中継したのがテレビ朝日だからというわけではないと思うが、朝日新聞浅田真央の五輪出場で、ご丁寧にも、天声人語、社説で論をはった。が、笑える。
天声人語は、15歳が門出の年だということで、年端のいかない子どもならともかく15の「門出の年」に達している浅田真央が「その時々で変わってきた」一貫しない規定で五輪に出られないのが残念だといい、「線引きの仕方」を「再考する価値はある」と書いている。
規定が変わるのはそのときどきの状況を反映してのことで、一貫していようがいまいが所定の民主的な手続きを経て決まった規定について門外漢が何をごたごた言えるのかという反ぱくよりも、こういう見え透いたことを書かなければならなかったのかと苦笑してしまう。
同じ紙面で、「トリノで見たい」と見出しを打って社説でも書かれている。年齢制限のある他の競技を引き合いに出しながらも、「フィギュアの年齢制限はわかりにくい」として、からだへの悪影響を懸念する国際スケート連盟の「医学的な見地」にさえ疑いをもって書かれている。「真央さんが出られなければ、トリノの優勝者は真の世界一とはいえなくなる」などと書かれてもあり、その根拠は何なのかを突っ込んでみたくもなる。
どっちにしたって勝ったから言っているんだろうが。出場資格が大会ごとのレギュレーションで決められているのは珍しい話ではない。それによって、カテゴリーが異なることだってある。規定が変わることだって珍しいことでもない。むしろ、フィギュアの複雑な採点方法からすればわかりやすくさえある。
なんでここまで浅田真央を超規定措置で推そうというのか。
フィギュアの採点を含めたレギュレーションの迷走はジャッジの買収やトーニャ・ハーディング事件などが遠因にあると思っている。わかりにくさ、とりわけ相対評価という特殊な採点方法が出走順などの影響もあって適正な点数を出しにくく、それが採点を不明確にしてしまう構造的な欠陥になっているとの考えがあり、今のような絶対評価に変わったのだと認識している。いわば、耐震偽装のようなことがあったわけで、そこから新しいルール作りを模索し、そのために出てきた規定のはずだ。とすれば、今、最もフィギュアスケートをめぐる環境で求められているのは、そうした規定に対するコンプライアンス。レギュレーションに遵守した大会運営だろう。そこからはみ出す才能があったので、どうして認められないのかとはいささか筋違いの感がある。
浅田真央が出られないトリノの勝者はトリノの五輪出場資格のある者のなかの真の世界一である。そうでなければ、プロレスのベルトなんか決まらんぞ(結論が変だな(笑)そんな胡散臭いものといっしょにしてはいけないのだろうが、朝日新聞の論調に、選手の囲い込みの意図があるような書き方もあるので、そんなところで締めておいた。
繰り返すが、反発しているわけでも、怒気がこもっているわけでもない。そんなことに看板を売り渡して書かなければいけなかった朝日新聞の事情が笑える。わずか80数日っていうけど、3日ならともかく、小学校の2学期の授業数に相当する日数がわずかとは、どうにもにわかに感覚として即座に感じられない時間。コップ半分の水の喩えと同じなのだ。とすれば、規定に基づくより他にないだろう。
思い出してみよう。
伊藤みどりにコンパルソリーがなければ世界一だったはず。しかし、世界一ではない。今と違って、コンパルソリーがあったからだ。それは、リレハンメルで原田が失速したのとは全く異なるものだということをみんなもっと考えようぜ。
この日の朝刊には、他にも笑えるところがあるんだが、うーん、面倒だけと書いておくか。
「ニッポン人脈記」はこのところビートルズつながりなんだが、ビートルズ来日当時武道館などの警備をした人の話に、来日前に映画の上映会にでかけたエピソードが出てきて、そこに「映画の原題はいまもそらんじている」とある。インタビューした方のことばだろうから、書いた記者をあんまり突っ込みたくないがなかなか笑える。そらんじるほどのものか。多分、チンジャオロースーの方が憶えにくい。短い文章のなかでどうしてもこれを書きたかった理由がわからぬ。もしかしたら、記者は原題とやらを知らなかったのではないか。知らないのは恥ではないが。何となく、おいおいとつっこみたくなる。
ことによると、最近の朝日新聞はこうしたつっこみを大事にして、のりつっこみという高等な技を駆使しているのかもしれない。