指導するということ

仕事の関係で講師を捜している。いくつかのブッキングが成功しつつあり、おもしろい企画になりそうだと思っている。
それでも電話をかけていろんな話をしていくと奇妙な感覚になることも少なくない。ある社会教育関係者には、不思議な対応をされた。企画のコンテンツは6つあって、そのうち、3つは体育館並みの大きさを使うもの。あるゲームを体験したいとのことで話をしたら、まるで知らないくせに何を言っているんだみたいな対応で、そのうえ、俺は都合が悪くていけないとさっさと言い切って、人に頼んでそれで仕舞。言葉尻にこちらにアプローチしようとする姿勢がなく、電話もこれじゃ普通の人が対応したら嫌になるかもなと思いながら、ああ、ボクだからこういう話し方をしているんだろうと納得させていた。それでも前進はあったから、ああいう話しぶりの人なのかもしれない。
一方、別の場所の社会教育関係者は全然別だった。企画の意図を読んで、学生ボランティアまでブッキング。いい機会として活用させてくれとのこと。おもしろいコラボレーションができればいいと期待感がふくらむ。あるNPOの人もそうだ。難しそうな仕事なのでその人にお願いしたが、悩みながら、自信がないと言いながらも前向き。
ふっと、以前ある場所であったできごとを思い出した。
クロスカントリースキーの指導を頼まれた。学校である。午前中、クロスカントリースキー、午後からかんじきハイクという強行日程。約100人の5年生を指導する。慣れた場所だが、時間の配分とそれなりの達成感をもてるような展開を必死で考えた。やりゃあいいというものではない。2時間弱の間に、生まれて初めてクロカンを履いた子どもたちにある種の感動をもってもらい、ままならぬことの楽しさを感じてもらう必要もある。そのうえで、山野のトレッキングを行うのだ。経験と感覚を研ぎ澄ませてルートをシミュレーションし、休憩場所や活動ポイント、子どもたちの様子や時間推移するフィールドを重ね合わせて、言葉さえ通りにくい集団のコントロールとコンテンツの展開を模索する。ぎりぎりまで考えまくって、ひとつひとつのことばさえ無駄なく、必要十分になるように心がけた。何せ、ボクには珍しく掌に展開を書いておいたほどだ。
幸い満足のいく指導ができたものの、どこで破綻があるかわからない。また、その破綻を織り込んでいるからこそ成功したようにも思う。そこなのだ。うまくいくことを描いていてもうまくいったのではなく、計画通り進んだだけなのだ。ここを誤ってしまうことが多くある。進行役と指導者の違いはそこにあるように思っている。
それだけ苦労したのは、翌年も同じ形でなんとか進んで、こういうやり方が定着することを願っていた。翌年になるとお呼びはかからなかった。内容はほぼ同じだったが、時間に都合が付くと申し出たのだが、やったことのある先生がいらっしゃるとのことで、ボクのようなおせっかいの出番はなくなった。そして、その翌年からこの活動はなくなった。やったことのある先生は、指導の体験がある人ではなく、クロスカントリースキーやかんじきハイクの経験者であったという意味らしい。前年、ボクが使ったコースは危険だとの理由で回避されたらしい。前年ボクを誘った先生は、そのコースこそがその日の子どもたちのモチベーションとフィールドの魅力をうまく生かしていたと評価していたんだが。
明日も、活動の下見である。時間や空間、参加者の動きが具体的に見えてくると大体は流れていくのだが、それが見えるまではどうしてもルーチンワークで誤魔化してしまう。ちょろいピアノトリオ+ドレスで歌っているだけのジャズボーカルの演奏みたいなものになる。