知のハルマゲドン

古い本である。1995年とある。ときは、オウムに揺れて、戦後的な価値観が崩壊しないまでも様々に変容していった季節である。
今もパワーの衰えない小林よしのりと、見えない大学本舗の浅羽通明の対談を含んだ本である。小林よしのり呉智英がいて、少し下の世代に、浅羽通明大塚英志、大槻ケンジ、中森明夫デーモン小暮閣下宮台真司(順不同)らがあるように思っているんだけど、これらの人々に共通するのは、権威に阿ない体質ではないのか。「私」から考えるという、ボクを含めた自分の時代の中で絶対的な武器を持っているように思うのだ。ある種のことばに簡単にはひれ伏さない。迎合しない。糾合しない。党派制を真っ先に疑う。そのことのためにことばを切り込ませるような態度が、特にこの年代に特徴的に現れていて、それは、例えば、とんねるずの芸(と呼んでいいのかどうかわからないが)にも現れており、コンサバティブな芸と芸がもつ非日常的な空気を巧みに組み合わせている。
もっとも、このあたりはタモリがすべての権威を茶化しながらも戦わずにそらして相対化してしまったような前段階があって始めて成立したものだろうと思うが。
芸人論は、また、いずれ。
今回のこの本で少し思い出したのは、「どこに思想の根拠をおくか」という吉本隆明の対談集である。この本の「思想の基準をめぐって」の章に出てくる<大衆の原象>ということばである。おそらく、ボクという思想の黎明期にもっとも衝撃を与えたことばで、それ以降、ボクはギルド的、上部構造的な政治を疎んじてきた。
もうひとつは、今の状況への端緒が10年前にはっきりあったことを意識した。
ついこの間、宮崎勤の判決が確定したが、オタクをめぐる言説が「萌え」となり無害化し、オウムが提示したメディアを巻き込む方法論を為政者の側が仕掛けてしまうような時代になっていることへのいよいよの警戒感をひりひりとした皮膚感覚で感じている。
今の若いやつはひねりがわからない。ストレートなものにどーんと反応する。そんな書かれ方をしている。本当にそうだ。萌え化したアキバにエロスはあるのか。小泉に、堀江に、過剰反応を示す連中にはものが見えているのか。潜伏し、埋没し、隠蔽されていく真実やその価値を暴くことを信条としていた世代には、露骨で、あけすけで、単純で、声高な正義は見え透いた嘘にしか思えない。しかし、もしかすると、そうしたものに誘因される人々は少なくないのかもしれない。
そのような状況のなかで、<大衆の原象>をどのように描けるのだろう。長いこと、そんな論考を放置してしまったように思う。今日、仕事の帰りに古本屋にでも寄ってこよう。

知のハルマゲドン (幻冬舎文庫)

知のハルマゲドン (幻冬舎文庫)