教育言説

何だか急に勉強したくなった。
ようやく、前の職場の独特の感覚と切り替えてことばを用いることもできるようになってきた。

教育言説のうち、とりわけ、現場的に用いられる独特のことばにけっこう嫌悪感がある。「投げ掛け」だの、「立派だった」だの、主体をどこに置くのかはっきりせず、意志をもった行動を擬態的なことばで代用してわかった気になる。わかった気になることばの方が「わかる」と言われるので、これがまた、奇妙。立派だったなどは、何が立派で、どんな素晴らしさがあるのかを全部捨象してしまえる便利なことば。
そうしたなかで、最も変なのは「よさ」である。元々、中教審で村井実が使ったことばが広がったものだが、これはもともと「善さ」で、善悪の「善」で何だか倫理的に取られてしまうので、「よさ」とひらがなにしたらしい。そうしたら、いよいよ誤用、まあ、意識していないのだから、誤謬にしておこう。誤謬が繁茂した。
この本でそうしたことは容易に明らかになるのだが、「善さ」とは何かを問いかけ、それに向かって生きることを「善さ」と言う。ボクはそんな置き方をしている。算数のよさとか、理科のよさ、追究のよさ、なんてのは「善さ」そのものではない。「善さ」を求めるに派生して現れるひとつの表出に過ぎない。
そんなこというとわかんないと言われるんだよね。
先日も、学校の先生方の集まりに招かれて、インタープリテーションについて説明するのに困った。凝り固まったことばをどう解していくのか、ボクが10年以上考えているのはそのことらしい。イニシアティブゲームでことばでのやりとりを殊更に重視するのは、どうやら、そのせいでもある。「つらい」と「つらかった」の間に横たわる差延に、教育者はもっと敏感になろう。