息子の練習着

次男が高校野球をやっている。長男のお下がりで間に合わせてきたが、何だかそれもかわいそうに思えて、練習着だけを買いに富山まで2時間で往復。同じ野球でもプレイスタイルが違うらしく破れる場所も違う。スライディングを長男は尻に近い場所でするし、次男は太股に近い場所で滑る。そのため、パットの当て加減も違うのだ。
実は、スポーツで無頓着にされているのはそういう個的な感覚だろう。指導者はときどき、自分の個的な感覚を普遍的な感覚であるかのように表現する。しっかりと話すことで、自分はどこに意識を置いていけばいいのかを咀嚼できるのだが、指導者のいう感覚が自分のなかに生じないのを不信に思い、指導者に信頼感があればあるほどディレンマに陥る。
しばしば、感覚語として引き合いに出される長嶋の「グ、バーン」のようなことばがわけのわからないものとして笑われているが、そこに生じる時間と寄せていく身体感覚をことばにしようとするとそのようなものになってしまう。わかりやすく言えないので寡黙になるイチローをボクらはよく知っているし、曖昧な表現で「うまく打てた」として、「うまく」がどのようにアプローチされたものかを語らない松井にもことばと感覚の齟齬(っていうのも変だけど)は現れている。無理に言おうとすると、「グ、バーン」になってしまう。そこで躊躇がないのが長嶋なのだ。
大体、世の中に、カーブとか、スライダーとか、フォークとかいう球種があるわけではない。そういう投げ方と球種として意識しているだけのことで、繰り出されるボールの軌道は概ねいくつかに分類は可能でも、一人一人微細な違いを見せる。同様に、ことばもまた、同じ文字を連ねていても様々な意味の連鎖として文脈を生じていることをいつも感じておきたい。