フライの雑誌73号

昨日、届いた。ぎりぎりになった原稿だが、何とか収めてもらった。毎回迷惑かけるので、今回はすぐに書き始めている。その間に教育基本法が改正されそうな気配もあるけれど。
今号の特集では「釣れるフライ釣りたいフライ」という定番の企画が掲載された。「釣りたいフライ」では「釣れないフライ」も掲載されるのでそれなりにいいイマジネーションをいただける。
実は今回応募しようと思っていたのだ。
ボクのオリジナルパターンでピューパのボディにコンドームを巻いたものがある。コンドームは比較的容易に手に入るマテリアルでそのうえ種類が多く、薄いため、延ばしたりねじったりするといろいろな表情がつく。このピューパはそうそう使うことはないものの、6月初旬の少々濁りが入ったB川では定番。もともとルースニングなどのニンフの釣りがそう得意ではないので出番は少ないが、ええいこれでもかと使うと釣れたりする。しかし、「釣りたいフライ」となると、むしろ、ソーヤーニンフか。最近、その無骨さにいよいよ敬服している。
その記事はともかく、「シニアにやさしいフライフィッシング」のなかで気に入ったことばを。

我々はすでに新製品を買おうという気がないからね。

ホントに(笑)フライのマーケットって大丈夫かなと思うほど、ロッドもリールもマテリアルもあんまり欲しくない。マテリアルはショップで並んでいるのでイマジネーションを刺激されて買う気になるので、フライデバイドに居住しているボクには、手芸店やホームセンターが刺激になるくらいで、そうした店には傍らにロッドを置いてあることもないので、購買意欲とか、衝動買いから遠い場所に佇んでいられる。そのうえ、近所の川でフライフィッシャーに会うこともほとんどないので、いよいよ。
これでは、日本のフライフィッシングは資本主義的に衰退してしまうのではないかと、文学的なフライフィッシングの発展を喜ぶボクとしても心配はしている。が、やっぱり、買わない(笑)
海フライでロッドでもへし折れたり、バッキング全部もっていかれるようなことがあれば、重い腰は上がるかもしれないけど。
自分の連載は、そこそこ書けたんじゃないかなと思う。いくつかの要素が絡むいつもの書きぶりで1回読んだだけではわからない人も少なくないという癖のある文章だもの、というか、それを狙っている節もある。
企画や構想の仕事でコラボ冊子を作ると、自分のページの物理的な「濃さ」が違うのにいつも苦笑している。
松本大学フライフィッシング講義録」も興味深い。アウトドア・スポーツといわれると奇妙な違和感にとらわれるが、一般的なカテゴリーとしてはそんなものなのだろう。スポーツがもつ汗くさいイメージに依拠した違和感ではない。アウトドアの方に嫌悪感があるのだ。
よく「アウトドアがお好きなんですね」といわれるが、別にそうでもないのだ。好きなものの多くが戸外にあるだけで、屋内に閉じこもっているときにも野山を想像するし、ひきこもりのような外遊びもある。陸上も野球もサッカーもアウトドアスポーツなんだけど、そう呼ばないでしょ。活動のエリアでスポーツのカテゴリーを括るのは何だかちょっとそぐわない現実もあって、じゃあ、何と呼んだらいいのかは思いつかないので、「山川野遊び」なんていうことばを使っている。外遊びではない。

食糧のために魚を獲るという実用的な目的を、極限まで排除した形式を独立させたものがフライフィッシングだといえる。

このあたりも少々連載のなかで深めていただきたいテーマ。ボクは夕餉に添える魚を獲ることもあるし、また、ブンガク的な思索のような釣りもある。食糧のために魚を獲る行為だけで成立している点では全く同感なのだが、それはフライフィッシングに限ったことではない。食のキャパシティをはるかに超えて大量で過剰な釣果を得る人は、あれも「食糧のため」という実用的な目的を欠いている。また、同様に、フライフィッシングにそのような目的がないというのもちょっと違うなあと思う。
フライフィッシングというメディアを用いるとその辺りの暗喩はわかりやすいとは思うし、ボクも時々そんな書き方をしてきた。今度からもう少し慎重に書くことにしよう。
ついでに、「仕事」や「まじめ」の対比としてある「遊び」だが、「学び」という観点で括ると両者にはどんな差も見えてこない。それも今後の連載に期待。