次男の野球

今日は先発マスク。2試合目の途中までかぶった。
野球というのはおもしろいスポーツでなかでもキャッチャーは試合を見通せるポジションで、うちの息子でも1球1球リプレイするように言うことができるものらしい。
そんなことを考えていたら、最近の野球中継の人気低迷の原因が見えてきた。このところ、テレビはわかりやすいものに受けがよく、その受けが長続きしない。単純なものはいわば花火なのだ。刹那的である。しかし、このところの傾向は花火のような哀切もなく、わっと盛り上がって気付かないうちに消えてしまう。イナバウアーもW杯を前に、そろそろ旬を過ぎようとしている。
こうした単純化傾向を「モノフォニック」とボクは呼んでいるんだけど、例えば、プロレスよりも格闘技などに人気が集まるのもそうした情況の現れだと思っている。プロレスを八百長とか、ショーとかそういう議論については、じゃあ、小説なんて「嘘」じゃないかとか、毎回同じ歌を聴いて何がうれしいのだと切り捨てるんだけど、それ以前に、プロレス的勝敗に感受性を投影できない人が増えている気がする。ピンフォールによって勝負は決するけれど、雌雄は決しない。それは、幾多の勝負の一表情に過ぎない。そのプロレス的なブンガクを理解できない、あるいは、理解していない人が少なくない。
先日、小橋と丸藤が闘い、なかなかプロレス的に痛快な試合をしたのだが、この試合に寄せる丸藤のコメントがおもしろい。
「ギブアップでも、リングアウトでもなく、ピンフォールしたい」
ある意味、リングアウトはプロレス的な決着だが、作戦勝ちのような面がある。それを許容することで面子や格式を潰すことなく、すなわち、互いのプライオリティを保持したまま、勝敗だけを示すことが可能になる。しかし、ギブアップはむしろそれとは対極にある結末で、最近のわかりやすいことの好きなモノフォリストにはウケがよい。だが、ギブアップやノックアウトは「事故」によってもたらされることもあり、プロレスとしての力の差を見せつけるにはあまりに偶発的ですらある。丸藤は、ピンフォールというプロレスとしての勝負を望み、そのなかで敗れた。そのことで、むしろ、負けた丸藤の価値を高めてみせたのだ。
実は、野球でもそうなのではないかと気付いた。WBCで西岡の離塁が早かったということで判定が覆った事件をもとに、奇妙な盛り上がりを見せたのだが、あのことで多くの人がタッチアップを知らなかったことが露わになった。みんな野球の勝敗が好きなのであって、野球好きではないのかも知れないと、そんな当たり前のことにようやく思い当たったのだ。つまり、野球を見る力が不足しているために、目の前で起きている野球が「わからない」人が少なくないらしい。
1アウト2,3塁。この場面で次の1球で何が起きるのか、そのイマジネーションが野球のおもしろさの本質であると考えるが、そのイマジネーション不足。国民的な人気のある「サザエさん」をその家族構成を全く知らず、基礎知識のないまま見たとき、一体日本の話だと理解できるのだろうか。あれは、すでに巷間に流布されて共有されている「サザエさん」によって成り立っているフォークロアである。その部分を切り離したとき、国民の1/5が見るような番組になるはずがない。
野球の場合には、一つのボールに埋め込まれた意図とその背後にある様々な思惑と事象を視聴者が読みとれなくなっている。それは、やけに声高な実況(代表は世界の松下)と、自分の自慢話やぼやきだけに終始する解説者(横綱田淵幸一)、さらに、選手の家族の感動秘話で構成される野球中継(日本テレビ)がそれを助長している。
今、福浦が勝ち越しソロを放った。このシリーズ、光っている。このまま、ジャイアンツがスイープされると貯金が9個ありながらも、切羽詰まってくる。