魚津だより

魚津だより

魚津だより

バブル(その頃、そんなことばはなかったが)へ到る道筋で日本全体が地方まで好景気のざわめきを感じていた昭和55年。慶応大学の名物教授池田弥三郎富山県魚津市に作られた洗足学園魚津短期大学に赴任した。大学の名前を挙げるために設立に名を連ねる程度ではなく、ホントに魚津に住んだのだ。有名人が富山に住むという事件は、えせ文化人を生み、富山の価値を高めようとあれこれと知られていないものが池田の口を通して、世間的な価値に相対化されて登場した。
こんな本を探してきたのは、先日、立山で、子どもたちの登山隊をサポートすべく、その日何度目かになる一の越への道の途上で、あんまり何度もすれ違ったり抜かれたりするので声をかけてきたご婦人などの百名山登山パーティーの口から出てきたことがきっかけだ。グループは、前日、剱岳に登り、今日は立山、明日は薬師岳に行くという典型的な百名山ゆかりの人々で、それなりに健脚と勉強の成果をお持ちである。魚津の子どもたちの登山隊のサポートをしているというと、「ああ、池田先生の『魚津だより』のところですね。読みましたよ」と返された。本は知っているが読んだことはない。池田弥三郎の本は何冊か読んだが、都会からやってきた人が、「地元の人たちは気付いていないけど、こんなすばらしいものがあるじゃないか」と気付き、啓蒙してくれるような話は大嫌いなのだ。
下山して、父の本棚を訪ねたら、あるじゃないか。トイレの滞在くらいにはちょうどいいので、読み始めた。
案の定、そのとおりの本で、裏日本、日本海、富山、越中、海、山、魚、川などといったキーワードで綴られた田舎に隠棲した知識人のつぶやきが並んでいる。
当時、東京〜魚津間は、6時間ちょっと。今はすでに運行していない「白山」が足の中心だった。北陸新幹線もそうだが、上越新幹線も運行していない。東京からの遠さが強調されるたび、何だか、ボクらはこの国があのどこか一点をもって中心とされ、そこからの距離感で描かれている姿を想起してしまう。どこに中心があろうが、ボクらはここにいるという実存をどのように彼に伝えてやろうかとふつふつと反逆の魂が表に出てくる。
しかし、池田教授に指摘されて、例えば、JRの運行が改善されたり、これまでと違った名物名産の見方が生まれたりといった効果もあった。ボクらがこの本に学ぶべきなのは、それから約30年経った今も、えらそうな人に指摘されるまでは自らの価値に自信がなく、また、問題を問題として直視し、解決の糸口を開こうとしない相も変わらぬ人々の姿である。「外圧」である。そうした反省をこの本から感じられるかどうかは、また、ボクらのくらしがちゃんと足下から立てるかどうかの試金石である。