浅はかな科学

出版ダイジェストが時々送られてくる。どうも、農村文化協会の何かに登録されてしまっているのだろう。1面のコラム、というには少し巨大なところは割りにおもしろい。
第2054号では、瀬名秀明が「人とロボットの共存社会を考える」として、「自動化」されていくふるまいについて書いている。
基本的には、習熟によってであれ、ロボットのような補助的な手段であれ、そうしたものによった「自動化」によっていくつかの制約から開放され、「ときに世界の驚きを見出す」というものだ。
フライフィッシングを考えてみたとき、ロボット的な部分は実に少ない。多くのフライフィッシャーは出来合いのフライを買うことをあまり好まないだろうし、自動的に適切なプレゼンテーションを行ってくれるような装置に期待する人はない。同様に、あの不自由なリールのやりとりを手放そうとはしない。一方で、習熟という「自動化」によって、多くの場合、バックキャストやプレゼンテーションなど意識しなくてもある程度目標とするエリアのなかにフライを落とせるようになり、それは結果として視界を広くし、同時に思考を広げている。

人は自動化されることで環境=ネイチャーと繋がっていく。

そう瀬名は書いている。そんなものかな。不自由さのなかに感じる環境の方にボクは優先権を与えたい。ままならぬものとの共存は、ロボットよりはよほど大切である。否、ロボットを最もままならぬ存在と見てしまえば、多くを同意できるが。
文中にあったホンダの前社長がASIMOと散歩したいと言っていたような趣味はボクにはない。ロボットに感情や意志を読みとってしまうのは、ボクらの主体である。むろん、それは人と人の間にも生じている命題ではあるが。
題名に絡むのを忘れていた。技術が実現する現実をもって科学の成果と考えるのは浅はかだし、ロボットなんかなくても、ボクらにはちゃんと考えるというサイエンスがある。と書きたかった。