全体知

久しぶりに新聞紙上で見かけた。水曜日の朝日新聞朝刊。「思想の言葉で読む21世紀論」という随時掲載のコラム。
バズワード、プラスティックワードなどという新しいことばの捉え方が紹介されている。
部分的に引用しておこう。

情報があふれる現代社会では、個人がすべての情報を知り理解することは不可能だ。そのために「部分知」に強い専門家も全体知の欠乏の不安に直面しているという。
結果として、時代の大きな枠組みをとらえるように見える言葉がもてはやされる。全体知が失われた空洞を、意味があいまいな言葉が埋めるという構図だ。

ずっと以前、そう次男が生まれた年なので、もう16年前にもなるが、3か月ほど岐阜でコンピュータ関係の研修を受けていた。
研修といっても勝手にいろんなことを考えている研修で、指導教官もなく、ほぼフリーターのように名古屋と岐阜を行き来していた。当時は、CD-ROMを登載したマルチメディアパソコン・FMタウンズが出たばかりの頃で、ハイパーカードの亜流のような「タウンズギア」というツールで何かしこしこ作っていた。こういうもので作ったパッケージを試すにはこれがよかろうとエロゲーを作って友人にやってもらったらけっこう喜んだので、これはいけそうとマップを使った探検ソフトを作った。これは後に賞金をいただいたのだが、それよりもエロゲーの方がおもしろかった。売ったりしたわけではないし、友人にやらせたけど渡してはいないのでいいんだろうと思うが、当時の人気AVアイドル麻生澪を使ったものだった。その頃は、画面のキャプチャーだけでも大変だったのを記憶している。
あ、そんなことはどうでもいいんだ。
そのときの論考で、全体知を問題にしている。
例えば、学校知というのは、教科という部分的な知を集積することで全体知に到ろうとする意図がある。いや、ないかもしれない。部分の集合が全体であるとする考え方が、語られない前提としてあって、教科ごとのバランスも部分のバランスによって成り立っており、それゆえ、子どもたちはオールラウンドを要求されている。本当のところ、それぞれの成り立ちというのは、部分のバランスをそもそも欠いている。欠いていることが問題ではなく、欠いているという前提で考えることがむしろ要求されなくてはならない。部分は全体の演繹から生まれるのだとボクはほざいた。時代は、まだ平成の始まりで、生活科が生まれたばかりだったが、学校に、その後、総合的な学習の時間という全体知として各教科を統合可能なメディアが生まれたあたりは、ボク自身の予測を裏付けるものになったようでうれしかった。
しかし、その後、部分知のエリアで活躍する人々がそうした全体から生じる、いや、際立つ部分の在処にうろたえ、たじろぎ、それで済むならいいのだが、こともあろうに部分知の中でも下層に位置する「読み書き計算」という学力を持ちだし、反論の根拠としたのである。しかし、いずれぶり返しがくると思っている。
今、例えば、音を端折ったCDの音を更に端折ったmp3のような音が全盛である。音楽が奏でる音というよりは、単純に濡れ場を並べたような安っぽいエロ小説に似たふくらみと偏りのない音に熱狂している人々もいずれ、豊穣な、無駄の多い場所にもどってくる、そんな説話がある。ボクもそう思う。正しい合理的な正義だけが世界を裁決することはできない。
そのときのレポートで、得られる情報の量が人の物理的な限界を超えてしまった場所では、すでにどれだけ情報を得られたのかは価値にならない。そうした情報から何をつかまえるのか、どんな知見をもてるのかが情報時代の知である、とも予言したのだが、むしろ、情報をいち早くたくさん集めてしまえるだけのことで未だに驚かれているような有様だ。前述の総合的な学習の時間では、ただただせっせとインターネットで調べているだけ学習もあると聞く。読み考え、表現し考え、問い直し考える思索を欠いた学びがあふれている。すでに、全体知に到る道を見失っているようにも思われる。
考えてみよう。全体知とは根幹なのだ。すべての根は幹に連なる。そのことを認識すれば、意図は必ず働く。その意図を支えるのは、哲学という行為である。