黒部川出平排砂

川の吐息、海のため息―ルポ黒部川ダム排砂

川の吐息、海のため息―ルポ黒部川ダム排砂

1991年12月にいきなり黒部川の水の色が変わった。
「絵の具を全部混ぜたような」と、土地の子どもが表現した最初の排砂だった。その朝、間もなく冬を迎えようとしている山や川は朝日を浴びて陰翳も見事に光り、堰堤を超えていく粘性を感じさせる水に何が起きたのかは、海からの告発を待つまでわからなかった。あれが、1991年のことだったというのも、この本を読んで、ようやく思い出した。とすると、ことの重大さが理解され、飛び交うヘリコプターの下、雪に覆われた真っ白な河原をどす黒い、腐臭を伴った水が流れていったのは、1994年の解禁直前だったか。今、K市で教員をやっているbakkenくんがまだ小学生だったはずだ。
早稲田探検部出身の筆者が排砂を知ったのは、2003年。「黒部川ウォッチング・富山ネットワーク」の金谷さんが「岳人」に掲載したレポートだそうで、ずいぶんと最近のことだ。そこからの会心の書には違いないが、当事者感が薄れる感じがするのは、報道も含めてこの出来事にかかわる多くの人々が最初の光景を記憶に留めていないからだ。「絵の具を全部混ぜたような」と、ほかの表現をもたないあの水を気に留めながらも追究できなかった恨みはどこまでも残る。そして、市民運動的に解決する方策はとりあえずボクにできることから遠ざけて、人の心に川を取り戻す形を選択し、今に至っている。それを社会行動への無関心として誹る人もあるのだが、人の行為に一定の歯止めをかけるのは教育の仕事だと思っていて、それはしばしば経験を伴った自立的な意志によって成し遂げられるものだろうと信じているからでもある。
ボクがある雑誌で排砂のことを書いたのはいつだったろう。地元のテレビ局、KNBがドキュメンタリーを制作したのはいつだったろう。そんなことを考えた。ああしたものが、あまり多くの人のところに届いていなかったようにも思えて、奇妙な違和感を感じている。

「排砂は環境に影響がない」という実施側の主張は、マスコミのおかげで十分社会に伝わっているはずだ。

このセンテンスには、少し驚いた。世間一般がそうなのかもしれない。ボクはあの川辺で流れるヘドロを見守った。腐臭を嗅ぎながら、これが人の営為であり、黒部川でメシを食っている人々の選択かと思うと、やるせなく、いたたまれなく、いとおしくなった。その感情がある限り、ボクはやり直しの機会があると思っていた。
もし、多くの人々がこの指摘通りのことを感じていたとしたら、いよいよ事態は深刻だ。あんなのを見ればどう考えてもご都合的な結末を予め用意していることはわかるだろうし、地元メディアもそのようなメッセージを随所に散りばめていた。もし、その通りなら川に対するイマジネーションが根底から欠落しているとしか考えられない。メディアにのせられた多くの映像は、わずかであっても川の感触を知るものには痛いほどに辛いものであった。筆者の言うとおりだとすれば、人々は川について感じ、考え、行動する根拠をすでに失っていることになる。ならば、いよいよ教育にこそ活路があることはいいのだが、筆者がマスコミの報道の形を自己批判することなく、報道の影に隠れていたものを浮かび上がらせただけで、シーソーの反対側を見せただけで終わっているのは実に惜しい。大体、そのときメディアも含めてみんながどんな思いで川辺にいたのか知らないし、大朝日の記者は後になってこうした事態を知って、自分がいなかった時代のマスコミに何をやっていたんだろうと言いたいのだろうか。「はじめに」と題された前書きにこうある。

三つ目は、ほとんどの県民、マスコミが排砂に対して無関心なことだ。

不遜。傲慢。無反省。大新聞の地方局記者にありがちなことだ。筆者がこの問題に接触したとき、すでに問題は固定化されていた。その固定されてしまう構造のあり方に切り込むべきジャーナリスティックな視点を少し遠ざけたまま、後からやってきたものがもつ、そして、この問題意識はしばしば客観的で事実を誠実に捉え評価しているものなのだが、問題化されていないことへの憤懣を含みながら表現されている。
地元のマスコミはよく反応していた。KNBは「それでも川は流れる〜黒部川フライフィッシャーの憂鬱〜」と題したドキュメンタリーを皮切りに、数年にわたってこの問題を追いかけた。たしか、そうした一連の報道を総集編にして芸術選賞をいただいたように記憶するが違うか。田近一秀記者の仕事だ。このドキュメンタリーで描かれている出平ダムをめぐる状況は、この本で扱われていない下新川海岸の浸食問題を挙げて、そのアンビバレンツな現実を浮き彫りにしている。
筆者は知らないのかもしれない。黒部ダム完成以前の下新川海岸で運動会ができたことなど。強いトルクをもつ波と黒部川によって供給される土砂がバランスをもって共存していたことを。川に点在していた大きな石は業者によって堀り上げられていったことを。
それでも、地味で、歴史的な出来事をここまで描いたのだからよしとするか。この問題を巡る今後のテキストとして貴重な資料となるだろう。関心のあるものは、この本の記述をベースに語ることができる。だれもがあがれるステージがようやくできたとも言える。しかし、漁業者ではない、普通に川辺に暮らしている人々の黒部川に対する感情を描くことで、多くの人々が何を諦め、何を捨ててしまったのかが描けるのだと思う。そのことで、筆者が批判している地元メディアの姿勢へのアンチテーゼを突きつけられるし、また、そのことで問題が補償という狭義の解決のあり方を模索しているわけでないことを多くの人に報せることが可能になりはしなかったか。人の生き方にかかる思いや願いのトポスだけに、それは、大新聞ジャーナリストの仕事ではなかったか。
ボクはボクのやり方で、人と川や水辺の接点を模索し続けたい。
それにしても、あの頃、黒部川周辺は賑やかだった。排砂、そして、オウム。何かが変わるように思っていたのは、安保に臨した人々と同様の経緯を辿る。
平成7年の大出水のあと、約10年。黒部川は以前の状態を少しずつ取り戻していた。かつてのように虫が羽化し、放流ものが大半とは言え、魚が跳ねる。少なくとも短期的な回復を見せていた。あっという間に、毎年不気味に繰り返される排砂で魚の姿が消える。消えたように見えているのは魚だが、魚を支える生態系ごと根こそぎ消えている想像力を一体どれだけの人が持っているのだろう。失われた環が二度と取り戻せない場所に行ってしまった悔いは、きっといつになってもはっきりとせず、何かを忘れたような残尿感だけが引きずるように延びていくだけだ。