いじめ自殺

いじめがきっかけになっている自殺はあるのだろうと思うのだが、いじめだけで死ぬことはない。
わからないが、実際にそうなったらどうなるかわからないし、その心情も理解できないわけでもないが、仮にいじめがあったとしても、そこから救い出せなかったことよりも、どうして死にまで至らしめて、そこに追い込まれるまでどうして親として何もしてやれなかったのだろう、助けてやれなかったのだろうとの思いはどこまでも残って、悲しくて、悔しくて、切なくて、それはもう人をなじったり、何かのせいにしたりするようなことは、ボクにはできそうもない。
いじめだけで死ぬことはない、ではない。いじめだけで死ぬことはできない。そう書きたい。
ある週刊誌の見出しを見ていたら、「学校に行かせない選択もある」なんて書いていたが、そんな選択は最初からある。決断など要らない。忌避すれば済むことはいくらもあるのだ。しかし、学校か、死かという極端な駆け引きに及んで、そして、死という大きなものを乗り越えてしまうには、もっともっと大きなエネルギーが必要だと思うのだ。消え入りそうになる自己の存在を死に至らしめるには強い力が必要なのだ。
ひとつには、死にリアリティがなく、ブンガクが成立していない。
ひとつには、死によって何を達成して、何が失われるかの駆け引きがない。
ひとつには、死には代償などなく、そのことで失う世界が永遠に戻ってこないことへの自覚が見えない。
いじめをめぐって「死」の価値のやりとりをするよりも、その死に向き合いきれなかった後悔が真っ先に浮かばないのだとすれば、家庭は、もはや、生死を支えるチカラを失っているのか。
下手くそな劇中の作文を見るような遺書に、彼や彼女は死ぬ瞬間まで死ぬことを知らず、間近に感じていなかったのではないのかとさえ感じる。
メメント・モリ。死を畏れよ。