いじめ自殺

もう1回書いておこう。
仮に自分の子どもがいじめなども要因になって自殺したとしよう。死への高い跳躍を果たす気力、あるいは、思い付き、一時の熱かもしれないその情動が、逃げようと思えば逃げられる学校での出来事であったとすると、家族の結び付きが、それ以下であることのように思えて、そのことが子どもが親である自分を棄てたように思えて、ボクにはとてもいたたまれない。
気付いて止めてやれたかどうかではない。死への高い跳躍を躊躇させる力さえなかったのかという絶望である。
ハプニングのように死んでいく子どもたち。
いつか、「またあい」のような映画がはびこるから、死のイメージが稀薄で再生可能の身体を夢想させてしまうのだと感じていたのだが、その映画で共演した2人がどうやらプライベートで破局してしまった。
事件とゴシップが、陰翳のない、また、影のない、ブンガクの情緒をもたない最近の子どもたちの直接的な行動につながっているように思えて、奇妙な痛痒感だけが残っている。
体験、体験と言いながら、子どもたちに体験から浮かび上がるブンガクの部分をないがしろにして経験への止揚を曖昧にしてきたおかげで、むしろ、直接体験を有用視した挙げ句、そこから生み出される観念的な世界、あるいは、言語によって紡がれる想像力によって得られる世界の実感を喪失させているのではないか。
例えば、ディズニーランド行ったことないし、徳川家康会ったことないし。
誰かに当てつけるために命を捨てるなんざ、割りに合わないぜ。想像力を働かせてみよ。いや、そんなものは「受験」に役に立ちそうもないから履修しなかったか。