後藤孝次のバット

北信越BCリーグが始まる。四国に次いで、日本で2番目のインディーズ・リーグである。ボクの地元にもチームが生まれるので、ずいぶん楽しみにしている。
このところ、新潟のアルビレックスを中心として、北陸にもプロスポーツの大きなうねりが訪れていて、つい最近もBJリーグが始まった。これも、アルビレックス。サッカーも、YKKAPやアローズ北陸というJFLの有力チームが活動している。トップリーグにはもうひとつなんだけれど、これから大きくなろうとするチームがあるのは、応援する方としてもおもしろさが増えていくようで楽しみでもある。
アルビレックスがこういう動きを本格化したのは、2002年のワールドカップ開催なのだから驚く。あっという間にこんなところにやってきた。Jリーグが目指した夢をいち早く大都会ではない場所から実現しようとしているとさえ思える。あのワールドカップが遺した最大の資産かもしれない。
そのアルビレックスの監督につくのは、後藤孝次である。典型的なB級性格俳優然としたプレーヤーだったが、存在感はあった。盟主・ジャイアンツには時々ああいうのがいる。引退後、ドジャーズのマイナーで自費留学していたらしく、今回、指導者としていきなりインディーズの監督になった。それはつまり、彼がボクらの土地でチームを率いてゲームをするということである。
次男坊は、どうしたことか、後藤孝次のバットを持っている。「後藤が見たい、会いたい」という夢は結局現役選手としての彼に見えることはできずに叶えてやれなかったが、今度はすぐ近く、しかも、彼自身がプレーヤーとして後藤の目に触れるような場所にあるのだ。
後藤のバットが届いた日、ボクは号泣した。もう、涙が次から次にあふれて止まらなかった。息子たちの前で憚らず顔を覆った。
小さい頃から野球は好きだった。綺羅星のごとくスタープレーヤーが、わずか1時間ちょっとの中継時間にブラウン管を駆け抜けていた。しかし、ボクはどうやらずいぶん運動神経に恵まれていなかったらしく、ボールひとつ満足に捕れなかった。そういうボクが野球好きであることを、子ども社会は実にリアルに、残酷に、許容してはくれなかったのだ。野球ができないものは野球好きを名乗ることさえ許されなかった。ボクが話す野球の話はすべて価値なきものとして葬られた。プロレス好きがプロレスのプレーヤーであることはごく稀であることをはっきりと自覚していたボクは、その頃のボクを取り巻いていた子ども社会の理不尽をよく理解していたために、とりあえず、ボク自身の心に傷を付けるだけで、身体を失うことまではなかったが、ボクは本格的に野球をやっている人から遠ざかっていった。時々に、名プレーヤーでなかった人が名監督になった例を何だかやけに好ましいと感じ、溜飲を下げていた。
息子たちがどうしたものか野球を始めてもそれはあまり変わらなかった。プレーヤーの人たちからは一定の距離を置いていた。そうしなければならないように。
ところが、あるきっかけで後藤のバットが家にやってきた。この日から、ボクは呪縛から逃れた。野球にようやく正面から向き合える場所にやってきた。夢のプレーヤーはやはり夢のスターだったのだ。ボクはそのときから、いよいよ野球へのリスペクトを深めたのである。
その後藤がボクらの土地で活動する。こんな縁があったのかと、あの日を思い出している。きっと、会える。
あの日、小学生だった次男は、後藤と同じ右投げ左打ちの俊足巧打の選手として高校野球の舞台に立っている。チームのだれよりも長く、グラウンドに立っている。