パーカーの万年筆

よい万年筆と原稿用紙をもつのは、どこか大人のたしなみとの思いがあった。昔から適当に文章を書くことが好きで、そのことを割りに認知してもらっていたのか、ペンや万年筆もいただいたりした。
憧れは、モンブランであった。太い文字で原稿用紙を黒々と塗りつぶすモンブランの力強い姿には、ビッグXの注射器仕込みの万年筆への憧れも含めて、あの太い軸を手にするとどんなことばも平気で紡げるように感じた。とりわけ、開高健のような、圧倒的な体験と叩き込むような、これでもかというような描写の底力があるようにも思えていた。
おそらく、就職した頃、叔母がくれたはずなのだが、見当たらない。あの頃の度重なる引っ越しで失ったに違いなく、実際当時のボクは筆記具へのこだわりはどこでも手に入るものを優先しており、そこらのボールペンを愛用していたし、また、鉛筆が好きであった。子どもの頃の垂涎、ハイユニなどを持っていたりした。これこそ、大人の購買力とうれしかったものだ。
8年くらい前から文書はペンで書いている。デスクペンも多いのだが、この頃は、パーカーのブルーブラックを使っている。万年筆を使うと何だか字が丁寧になったようにも思えるし、大きな字でも細い字でもわりにきれいに描けるのだ。しかし、パーカーの細字はどこか憧れのモンブランからは遠く、たまに近所の専門的な文具店でモンブランペリカンを眺めている。こういうものを持つのが大人だなと、何かの機会に買おうと物色している。今使っているパーカーには少々申し訳なく、後ろめたくも思っていたりしていた。
ところが最近になって、藤沢周平に関する文を読んでいたら、パーカーの細字、しかも、ブルーブラックを使っていたとあった。これで、急激に考え方が変わった。好きになった。かけがえのないもののように思えてきた。その文章を読んでからのボクのシステム手帳はパーカーの文字で埋まっている。全く、宗旨替えか。
しかし、モンブランも欲しかったりする。システム手帳も作りたいし。ステーショナリーは仕事や生き方に密接な分だけ、思い切りわがまましたいものだ。