知り合いのブログ

いつも楽しみにしていたのにブログ閉鎖。
きっと、ボクにも関係あるんだろうなあ。
ボクが若い頃に食ってかかったように、若い人たちはボクに食ってかかってこない。どこか距離感を残したままで、内に秘めたようないくつかのことばをそのまま呑み込んで耐えているのか、受け流しているのか、そもそもネゴシエーションの対象として見られていないのか。それでいて突っ込んでいくと、どこか逸らすように考え方が違うだのと言い始める。世代の特徴ではない。どうやら時代の特徴らしい。
朝まで生テレビが開拓した徹底討論の空気は、むしろ、いい大人が社会問題、政治問題に熱くなる姿をエンターティメントにしただけで終わってしまったのだろうか。それは、全共闘のあの時代感を懐かしむことにも似ている。何とどう戦っていたのかよりも当時の充実感と熱狂を手がかりにしている。その嗜好の構造は、基本的に旧軍を懐かしんでいたその前の世代と同じだ。
ボクは一体何を懐かしんでいるのだろう。戦うべき対象を見失った僕たちはひたすら目の前の既成と既存の価値の解体を通して、意味を問い直してきた。いや、そういうつもりなのだが、それすら有効な戦略だったとも評価していない。同じ関心をもっていたはずのYMOが気まぐれに売れてしまって、価値を解体するものが価値になってしまうという失笑ものの結末を苦笑いするしかなかった時代に残された戦いすらなくなってしまっていた。
若い連中からボクら中年はどう見えているのだろう。誰かの真似をしたり、ひたすら成功体験を追い求めて、自分が価値あるものと信じ込んでいくことで、手がかりと希望を見出すような性質は、残念ながらボクには、ない。
こう書いてみると、なかなかポストモダニストのようで、そんなものなど思想運動としてもどうってことがなかったと思ってみても、楽しい。積み木は積み上げるときもおもしろいが、崩すのはいよいよおもしろい。
さあ、知り合いはどう思うか。
答えは来ないだろう。ボクの戦いと彼の戦いは違うのだ、で整理されて仕舞である。ボクらの時代なら異種格闘技戦から逃げるのは卑怯で、今ならフォーマットの違いで片付けてしまうのかもしれない。
で、全部「かもしれない」となってしまうもどかしさで、つい、だらだら書いてしまうことになる。