教育最低会議2次答申

社外重役の言いなりになる伸び悩みの中堅企業の改革みたいだ。
学校を変えるのは、学校を担っている人々である。その人々の意志に働きかけるような施策でなければまったく功をなさない。
思い付きのような制度改革でどれだけ末端の作業が繁雑になって混乱をきたすかが見えていないだろう。
例えば、教育委員会や学校の裁量で、土曜日、休日の授業を可能にするとしたが、では、財源も教育委員会にわたせ。教職員の人事権をもたない現況で、そのような裁量権だけが生じることのおかしさを想念出来ないのか。がんばれ、では破綻する。
このことでおもしろい表現を見た。現在の学校についてのとやかくが「風評被害」であるという。これはおもしろい。
学力論争、総合的な学習の時間、教員の質の低下。いずれも、まったく根拠の曖昧なものをもって、総ざらいされるように上塗りの制度改革が進む。酷い時代になった。
自分が子どもの頃よりも、間違いなく知識は体験を伴っているし、教員は緻密に計画的にやっている。これが教育に問題を与えているのなら原因が別のところにあると考えてよさそうだし、あるいは、職員室で酒を飲むような教員や自習ばかりの授業の方がよかったということになる。
ひと頃、ガキ大将がいないから子どもの社会が荒れるという言説が流布した。それは、旧軍のようにわけもわからず権威的に掟をたたきこむようなやり方がよかったというのとそんなにかわらない。ガキ大将が象徴していた時代の終わりを認識し、価値が解体していく時代の学校とは何かを考える哲学の仕事を欠いた教育最低会議の改革は必ずや破綻し、ほころびが出るたびに布を当て、ペンキを上塗りして、見えないように見えないように、問題ではなく、議論を先送りにして時代につけを回していくに違いない。