[ことば]前田という男

およそ、前田には晴れがましい舞台が似合わない。いよいよ通算2000本安打に近づいたのだが、ちょっと前の田中と同じ年の達成でそんなものかと思われると前田が気の毒になる。度重なる怪我で、
前田という打者は死にました
と話した天才(という言い方さえ気になるが)打者は、一応の名選手のお墨付きをいただくことになる。*1
二宮清純*2は「スポーツを「視る」技術」という新書のなかで、「孤高の天才打者−前田智徳という精神性」と題して彼というアスリートを描いている。
なかでも強烈なエピソードは、甲子園に出場した1回戦で静岡代表の日大三島の投手から第1打席でヒットを打つのだが、そのヒットがどうにも気に入らない。攻守が代わってもベンチに引っ込んだまま守備につかない。「おれはダメだ」と涙さえ浮かべて動こうとしない。部長が何とか説得してフィールドに戻るのだが、審判に促されても理由の説明に納得してくれそうもない。ヒットが気に入らないので守備につくのを嫌がっているのです、などとどうして言えようか。
このエピソードに、彼というアスリートが目指してきた孤高が、どこかの誰かよりもどうだとか、何本ヒットを打ったとかいうことよりも、どう自分が納得できるかに置かれていることがわかる。
今、「学力」なんてことが問題になっていて、漢字が書けるとか、計算ができるとか、よく知っているとかいう形成的な成果をもって「学力」を計ろうとする傾向がある。知らないよりも知っていた方がいいじゃないか。そんなことである。
百名山だってそうだ。達成することによって、多くを説明せずにある種のステータスを得る。それなりの人だと納得してもらえる。
しかし、前田的に言うと、かつて佐伯邦夫が使った「会心」ということばが思い出される。「会心の山」と書いたのだ。
学ぶことは会心である。会心の状態を得るために、努力とか苦労とかそんなことは関係なく、自らを赴かせるのである。何よりも内心の、あるいは心身の合一感を伴う場所に立てることに価値を置く。相対的な価値になど阿ることがない。
そういえば、世界陸上の中継で印象的な言い方があった。女子三段跳びで解説者が「だれだってがんばっているんです。でも、力んじゃいけない。がんばることや気合いを入れるのはいいけれど、力んでも結果はでない。」そんなことを話していた。会心は「がんばる」ことと別の場所にある到達点であるはずだ。
今日にも、前田は2000本安打を達成する。一度、「前田という打者」をあきらめた前田が、1500本安打くらいの時に、2000本打てそうな気がしたのだという。その思いが届いたとき、彼はいったいどんな孤高を視るのだろう。そこに会心があるのかどうか。スポーツを<視る>ものとして見極めてみたい。
実は、こんなことを書いてみたのも、朝青龍騒動に描かれているように、スポーツが似非正義を混ぜ込んだゴシップとしてエンターティメント化していく事態に何か変容をもたらすものであってほしいとさえ願う気持ちからだ。朝青龍には、このまま何事もなかったように平然と復帰して、そのまま全勝優勝してほしい。品格とは土俵の勝負に現れるものであり、スポーツの視線はそのトポスに向けられる。*3
本を紹介しておこう。いずれも、長男の本棚から拾ってきた。

スポーツを「視る」技術 (講談社現代新書)

スポーツを「視る」技術 (講談社現代新書)

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次男のチームがなぜこの1年間バントを主戦法としなかったのかがよくわかってもらえると思う。そういえば、息子たちが在籍した少年野球チームはバントを主戦法としなかった。別の理由があるのだが、それはスポーツというダイナミズムをよく身につけさせるための手法でもあった。ゆえに、次男はこう言う。

バントのサインがでたときに、一瞬全体がへこんだような雰囲気になる。チームのためにああ、こいつが犠牲になるのかという空気だ。しかし、それは違う。バントによって得点圏というデンジャラスな位置にプレーヤーを送る一触即発の局面を作るのである。バントは攻めである。そこを勘違いしてアウトになることを怖がっている奴がいる。そんなやつはきっと野球を考えてこなかった奴だろう。

ボクも同感である。彼もまた、長男同様、スポーツを<視る>技術を知らず知らず身に付けている。
余談だが、その技術はプロレスを<視る>という行いに象徴的だと思える。余分な物言いだ。

前田だが、今日らしいライト前にライナーで運ぶヒットで達成したらしい。*4中継を見ることができなかった。このところ、テレビでは野球が観られない。CSやケーブルのものになりつつある。野球を<視る>技術も次第に低下していくのだろうが、同じ展開にあったプロレスは先鋭化と愚鈍化の2極格差が生まれて、それはそれで面白くもあるが。

*1:名球会入りが名選手となると、田中なんかにはかなりの違和感がある。長くやっていればってもんじゃないよってことでもなく、これが田中であるという形が描けないのだ。その不幸は名選手を定義することの難しさを教えてくれる。評価を数値化して客観視したかのようにうそぶく連中にこの問題を提示したい。

*2:文字で打ったら清純派の清純じゃないか。ペンネームか

*3:何しろ、朝青龍に対する野次のようなものを「質問」と呼んでしまうメディアにはあきれる。朝青龍帰国の際の「横綱、楽しかったですか。サッカーは」という質問をしたのが、もし、メジャーメディアの奴だったら、もうスポーツメディアには先がない。三浦さん報道事件やオウム報道事件で何も学ばなかったのか

*4:4打席音無で今日は無理かと思わせたところで、チームが5打席目を用意した。あまりにたくさんの人で雰囲気に入れなかったという前田のコメントはとても「らし」かった。達成者の一覧表をみると、駒田の2006安打がしがみついて達成した観があってなかなか見苦しく、おもしろい。