修繕

今日は修繕しまくり。業者はやってくるし、自分自身でもいろいろやってみた。そこそこ金がかかりそうな修繕が見つかった。原因がそれだとすれば、なかなか大変だが、来年まで使わないブロックなので、何とか資金繰りをしてもらおう。
以前の仕事では、いろんな単位で予算を扱ったが、すごいなあと思わせたのは国の予算。ちょっとした縁で見せてもらった資料には「単位:百万円」とあったりしてなかなか驚くわけだ。その頃のボクは、鉛筆を何本にするかの攻防に終始していたが、案外その攻防の間に時給1000円としても数千円を浪費しているわけで、そういうのを無駄っていうのかもしれない。しかし、その資金には徒や疎かにはできない事情もあって、その企業体はそうした性質を元々持っているだけにそれもやむを得ない側面ではあった。
社会保険庁のいろいろな悶着も全体から見ればそうたいした金額でもないのに舛添要一が目くじらを立てているのは、結局、金額云々ではなくそうした不正を看過していたことへの責任感だろう。しばしば使われる「民間なら」という冠言葉は無意味だ。民間ではなく税金を費やすことへの社会的な責任なのだ。
これはときどき感じるなあ。例えば、民間だったらそんな悠長なことはしていない、なんて言い方があるけれど、行政の場合には、税金を取り扱う性質上、ヤマを張るわけにはいかないのだと思う。当たるも八卦、当たらぬもなんてことは言っていられないし、そもそも投機的な予算の使い方など許されてもいない。「民間だったらとっくに潰れている」というのもそうだろう。だから、公共団体がやっているんで、そもそも文脈が合わない。
行政がやることはどうも地味だっていうんで、変な建物を造ると今度は無駄遣いと言われる。どうして、行政はそこで行政なんてこんなものですと開き直れないのだろう。変な、というのか独創的な建物なんかは民間がおやりになればいいので、税金を使って奇妙な意匠を取り入れるわけにはいけないのですと、その合理性を説けばいいのになあ。そこらに民意とか呼ばれるもののおかしさを感じることもある。その民意に自分も含まれていると思うといよいよ、さて、ボクの民意を伝えるにはどうすればいいのかと考える。選挙くらいしかないのかなと思うが、これもまた、どうしたものかと思う。
というのは、50歳以上で初当選した議員の会に福田元官房長官が入っているそうで、それを「クローニンの会」とか言うそうだ。とすると、50歳代で初当選はとても遅いことになる。国会議員たるもの、遅くとも40歳代には議席を得ている必要があるのか。ところが、例えば、町会議員あたりでは60歳代以下の人がいなかったりするわけで、年金もらっている人たちの年金議会みたいな雰囲気のところも少なくないそうだ。そうすると、ボクらレベルの民意はちゃんと政治に反映するのかって考えてしまうのだ。そのうえ、そもそも地方議会に政治は可能なのかとも思う。地方自治は、大統領制なのだ。政治を知事部局に握られる可能性が大きい。とすると、いよいよ政治はどこにいるのか。そのあたりが、ボクらの社会がふわふわと押しどころの定まらぬ肥満体に思わせる根拠なんだろう。
ともあれ、課題は水漏れである。コンクリートを剥がさねばならぬ。