知恵と意欲と

いかんなあ。
「去年は」とか、「前は」とか、「そこまでしなくても」とか言われると、もうぞんざいな対応をしてしまう。遺憾なあ。
知恵と意欲を欠いた前例をベースに進める仕事は大嫌いだ。今、目の前に展開している物事について、課題と解決への道筋を示せないような仕事は全くどうにも気に入らない。自分だけにしておけばいいんだよね、そんなこと。
メールの返事を英語でもらったりもした。
意味がわからんで、情けなくもなったが。
何の当てつけか、いたずらか、余興か。意図がわからないと気持ちが悪いものだ。
先日のことをちょっと思い出してひっかかっていることもある。
大学時代のボクのことを知っている人と話していたが、彼がボクのことを、例えばレポートの課題は写して仕上げる人と思っているらしく、今もその品性は変わらないと思っていることに気付いたとき、ちょっと悔しかった。当時のボクはいっぱいいっぱいで、実際、自分興味が薄いことにはそうやって対応していたし、正直なところこの程度でいいなと思ったら、モザイクのようなレポートも書いた。
だけど、多くの場合には一貫して自分のことばを貫いたし、その後、仕事に就いてからもそのようにしてきた。彼がそのように言ったということは、多くの人々がボクの言説をそのようなものと捉えているということだ。それで少々合点した。先日の研修会で「出典は?」と聞かれた話。そう思われていると思うと悔しいなあ。どんな独創性もパクリと見られているわけだから。
そばにいる人たちもそんな風に思っているのだとしたら、そんな疑心暗鬼に囚われている卑小な自分を感じて嫌になっている苛立ちもあるわけだ。
思えば、20年前の「立山事件」も払拭できていないものなあ。ある会合を立山に行ってすっぽかしたと思われている事件だ。実は、うちの親父のことと思った妹が「立山に行っています」と言ったら、さもありなむということで会合の中止が宣せられ、さらに主催者がそのことを何にも言わずにいたもので、すっかりボクは会合をすっぽかして立山に行った人になっているのだ。5年位たったところである人がそう教えてくれた。
立山事件の人なので大丈夫だろうかと心配していたが、しっかりした人で安心した」
もともと、立山事件は、ボクが会合をすっぽかした事件ではなく、ボクと親父の日程を勘違いして会合を中止にしてしまった事件として記憶されるべきなのだが。
とネットで書いたところで名誉の回復など望めない。