社会教育のワークショップ

後輩の論文。とても、よくできているのだが副題が気になった。おそらくは、筆者も書くように紙幅の制限であろう。
本人も見ると思うのだが、敢えて書いておこう。
社会教育と書かれているのだが、学校教育との対比で使っているのだとすれば、就学者、あるいは学校関係者を対象としていないようにしか思えず、残念ながら社会教育とは何かという定義づけに弱い。本体がよくできているだけに残念でならない。社会教育の項では、学校教育のみを対象としない教育方法について述べられている。それはそれで、社会教育、学校教育にかかわらず双方で成立するのだという考えが筆者にあるとするなら、いよいよ方法論からの接近法を離れて、社会教育とは何かを少々描いておく必要があったろう。
もっとも、そんなものは自明なのだと言い切ってしまえばそれで済むのだが。多くの論文は、とりわけその分野についてそれほどの論考をもっていない人々を対象とすると身悶えしている様子がよくわかる。この論文が掲載された号数から察するに、23年前に書いたボクのパソコンに関する論文は、果たしてパソコンにさわったことのない人たちにパソコンによって変容し、新しい地平を切り拓くであろう人の感覚の将来について論じていた。すでに、そこにはネットワーク化によって記憶が外部化して、いよいよ私たちは実存に向き合う意志と語るべきだとする姿を書いている。当時、パソコン、特に、マックなどにシンパシーのあった連中は、それまで権威のヒエラルキー下流に置かれていたユーザが、反転して権威を無化し並列的な価値社会を生み出すことへの期待と懸念を想定していた。そのことで、例えば、学びに起きる変化について敏感であった。
難しいところだ。
ここの部分は本人から聞き出したいと思う。
簡単に言い切ってしまえば、社会教育とはコンパルソリーではないという立ち位置に尽きる。*1

*1:法律的には、学校教育法第1条に規定されていない教育を社会教育と呼ぶ。ゆえに、学校教育は極めて限定的に適用される教育の形である。