横浜事件免訴確定

国際社会学者細川嘉六が「改造」に寄せた上下の論文が公権力の目に止まり、そこから非合法化されていた共産党の再結成の目論見というでっちあげが生まれていったこの事件は、ボクの町に残る1枚の写真が大きな鍵となった。20年くらい前は、町のだれもが知っている話だったし、町を紹介する本にもたいていそのことが書かれていた。細川嘉六が共産主義の思想の持ち主であったというわけではない。物言うものが弾圧される時代だったのだ。ボクはむしろそうして戦前の権力に指弾された人々の勇気と権力に阿ることのない姿に有形無形の教育を受けていたように思う。
その横浜事件の再審が免訴という結果で終結した。無罪有罪を争うことなく終わってしまった。関係者にはひどく残念な結果だろう。ボクにはその事件の記憶がこの町にさえ風化しつつあることも同時に悔しくある。
先日、事件の舞台となったであろう界隈を歩いた。どこの地方都市もそうだが、元々そう大きな町ではないこの小さな宿場町は大いに廃れている。年寄りさえ町を歩かぬ。猫さえ横切らぬ。そんな通りの姿が春の日差しに、小さかった頃と同じ香りを沸き立たせている。その頃はどんな場所だったのだろうか。町のかたちはあまり変わらないけれど、スタイルを大きく変えた。行き交うクルマが剣呑にさえ思えたのに、元旦の朝のように道の中央を独占して歩ける。
江戸時代に重なる高波被害のため、海岸線から少し内陸部の高台に移築された計画都市である。北陸道沿いに表通り、裏通りがしつらえられ、役所、寺院、町方、職人町が巧みに配置されていたのだという。その名残は、ボクの町内にも最近まで残っていて鍛冶屋や新川木綿に支えられた綿屋が軒を連ねていた。実家は石屋であり、そば打ちが上手だった曾祖母は鍛冶屋の娘である。町の東には、花街があり、越後国境との交易の賑わいを突出させていたそうだ。
細川らが地元の友達と旧交をあたためた三笑楼はもう営業していないのか、ずいぶんひっそりしている。三笑と書かれた小さな表札だけが、往事を偲ばせると思っているのはボクの勝手で、細部には紛れもなく時代の名残を蓄えているのだろう。
紋左は今もしっかりと営業しており、少し大人数の団体となるとしばしば使われる。横浜事件に絡んであまりにも有名な料亭の中庭での記念写真はこの紋左でのものだ。共産党再結成の謀議どころか、同級会、同窓会である。謀議であったと証言しろと詰め寄られた女将がきっぱりと否定し続けた話は、この町の矜持を示した逸話としてしばしば語られ続けた。
残念だが、ボクが記憶している町ですら、もう往時のものではない。ここには亀子座という芝居小屋があったそうだし、戦後は労演運動が盛んになり、いろんば場所で演劇が行われ、勉強会のために有名な俳優を招くこともあったらしい。杉村春子がうちの座敷でたくさんの若い人を集めて話している写真には正直驚いた。浮世館という小屋もあったそうだ。やがて、映画館となり、映画の斜陽とともに消えていった。記憶もやがて風化していく。南部忠平や織田幹雄が走り、古橋広之進が泳いだ場所もすっかり面影を亡くしている。いずれも、大正年間に始まったJリーグが目指すような文化・スポーツクラブが招いたものだ。すぐに、行政が、国がと騒ぎ立てる前に自分たちで始めてしまった。その空気にも土地柄を感じる。進取、意気と粋。この町の風だろうと思う。
こうしたものを語り継ぐ仕事が必要なのだろう。誰か、ではなく、ボクが、と思うべきだが、さあてまた余計なことがむくむくとわき上がってきた。
新聞に目を落とすと地元の公立病院の内科常勤医が半減するという記事。国の制度的不備が地方医療をずたずたにしている。田舎暮らしに憧れる都会の人々と、決死の覚悟でこの土地にしがみつくしかない人々との齟齬を感じる。