桑田帰国

まずは、どこかで野球解説を。
といいながらこの野球解説ってことばが前々からくせ者だと思っていた。
説明しかできない人や自分のことでしかしゃべれない人などもいるんだが、野球をおもしろく、奥深く見せ、それでいてゲームの流れを壊さない人がいい。
できれば、ゲームの空気に呑まれてその臨場感に知らず知らず自分自身も入り込んでいく人がいい。
ボクはそう思っている。
冷静に思える江川がそうなっている瞬間があり、その瞬間は掛布とのコンビでしばしば現れる。
田淵などはもう喋らない方がいいくらいだが、星野と組み合わせるとボケ味がそう悪くない。
古田の五輪予選は本人の意識もそこにあったが、野球小僧、野球親父が単純にゲームに興奮する様子を見せてくれた。贔屓のチームはあるにせよ、どちらのプレイにも賞賛は惜しまない、プロレス的礼儀正しさが表れていた。
今、監督としてチーム作りをしている人たちはどうだったろう。
原はどこまでいっても若大将的な言説が抜けない。それは、元祖若大将がそうであるように、現世離れしたKYなことばまでその人のオーラにしてしまえる力を持っていたけれど、野球という戦略が見えにくいものであった。
野村はおもしろい。そこまで考えているのか、という野球の可能性をうまく導いていたし、ぼやきは基本的に「野球的」である。そうなんだ。日本の野球は基本「ぼやき」なのだ。何やってんだ、このおが徹底的に基盤としてあって、そこによくやったぞおが出現する。ただ、野村の場合、多くの選手が矮小化されてしまう感じがあった。
落合の解説は、野村に似てぼやきをベースにしているが、所詮勝ち負けに拘泥していないし、解説者ならいよいよそれは本領を発揮できるので、野球のおもしろさは伝わるが、ゲームの楽しさはない。
大矢はキャッチャー的な独特の分析がありながらも、さすがフジサンケイグループだけあって、スタンドの軽口みたいな言い方が好きだった。
王さんは王道である。技術的なことを敢えて避けて話していた。それを話すことでゲームを観る感覚が壊れてしまうことをよく知っていたように思う。この逆が長嶋で、長嶋の解説の日は、長嶋がおもしろいでの、おもしろい長嶋を出現させるためにゲームがあるような雰囲気さえ漂わせていた。まだまだ、この国は平成になってすらこの2人に頼っている。
そこで、桑田。どんなことを話すのだろうか。ボクはKKよりは少し上、ドカベン香川と同じ年齢である。バッテリーの牛島が監督でこけちゃったので、どうやらいっきに古田までシフトしてしまった様子。長嶋、王が引退後も数十年間野球を支えたように、KK世代とその前後の世代が野球を支えるかというと、ここはやっぱりプロレス的群雄割拠になるだろう。馬場、猪木のあとのプロレスを、ボクらはいよいよ野球に現実化してしまう。とすれば、桑田は三沢か。清原は長州か。