北朝鮮の技術開発

北朝鮮の動向でいろいろあたふたと浮き足立った対応が目についている。
日本は、北朝鮮核武装したんじゃないかとか、新しい技術でロケットエンジンを作ったんじゃないかといろいろ心配しているけれど、敗戦国、侵略国だった、あるいは、そう思われていた日本の戦後の技術開発も多くの国々から見れば、今、この国がおたおたしているのと同じ様子だったのではないかという視点を外してはならないと思っている。
WBCで浮かれた春だったけれど、アメリカにしてみれば、両横綱がモンゴル人というのと同じで、イチローなんかはさしずめ朝青龍に違いない。胃潰瘍で日本に帰る何ぞと言い出した日には、もう帰ってくるなくらいの印象なのかも知れないのだ。そういう視点を共有することがグローバリゼーションで、世界に進出して英語でコミュニケーション取ることは些末な対応にすぎない。
想像してみよう。
日本が人工衛星を打ち上げたこと。東海村で核施設を作ったこと。それらが、軍事転用されないという保証はない。憲法で規定しているとかいいながら、保守党が憲法改正に積極的という変な国なのだ。信じてなんかもらえまい。世界でもっとも性能の良いパソコンを作ったとか、高い技術の集積技術を持っているとか、そういう一つ一つの日本の自慢や特技がどこかで潜伏している日本への過去の歴史が作った不信感を浴びてしまえば、すべては、途方もない脅威の芽生えになってしまう。
そうした想像力をもち、グローバルな視点から描き出す思想を育むのは教育の仕事であり、とりわけ総合的な学習の時間にその可能性を見いだした文部官僚の見識を、橋下知事は知るまい。案外、官僚は世事の細かいところにとらわれないぶんだけ、理想主義であり、こと文部科学省のような夢想家集団には適当なのである。
さて、飛翔体はいつどうやってこの国をまたぎこすのだろう。アメリカが知っていてこの国に知らせないこと、あるいは、政府が意図的に漏らさない情報にこそ、本当の姿があると思うのだが。不安を煽って一体感を作るのは、宿題ができないと懲らしめられるというモチベーションで日曜の夜泣きながら宿題をしている子どもたちの、月曜の朝に見せるわかちあいの空気と同じである。重く、冷たく、淀んでいる。