林檎でも

最近、仕事に遊びをなくしているなあと感じる。
案外人は面倒そうなことに不安をもつようで、想定内だけどルーチンからはなれたものや、突発的に起きる事態に対して相当の不安を抱えている。取り乱すほどではないが、合理的な判断ができないという意味でパニックになっている例も最近はいくつか感じている。
どこかに遊びが足りないのだ。
遊びとは何かと書き始めると長くなるが、仕事を緊張、遊びを弛緩と考える向きが多く、それではどうにもなるまいと思う。緊張と弛緩は人の振る舞いのなかに自然に含まれてくるもので、仕事がすべてストレス、遊びはリラックスなどと考えるから結局、リラックスの果てに仕事に向き合う気力体力まで萎えていく人をたくさん見てきた。
どうして真剣に遊ばないのだとしばしば叫ぶ。
仕事と遊びの違いは、おそらくは、そのめあて、達成目標となるものの差で、ふるまいやしぐさに大きな差はない。仕事ならば、組織的な動きや規則遵守などがあるばかりで、遊びにはそうしたものは了解で決めていけるという性格の違いだけだ。仕事にのめり込む人は、当然遊びにものめり込む。遊べない人は仕事にもならない。
仕事に遊びを入れるというと語弊があるが、「冒険」である。こういうことをやってみたらどうだろうという、冒険というのはささいなのでプラクティスを常に含んでいく手はないものか。そんなことを考えていると、プラクティスばかりで埋め尽くされ、それが本業を圧迫しつつある自分を知っているので、少々後ろめたくもあるが。
昨日も、外環境の整備があって、たくさんのボランティアスタッフといろいろやっていたが、おもしろそうなことばかりを思いつくのだが、自分がやっても先に続かないと思うので、そう考えているだけでじりじりしてきた。どうして、おもしろそうにしないのだろう。この職場は好奇心や向上心を失った瞬間に新しいものを生み出せない場所になるというのに。
そんなことつらつら考えていたら、へそくりで林檎帳面を買おうかなと算段している。白ですな。ポリカーの。どうせ仕事にも使わないが、ごくたまに必要になるプレゼンに持ち出すのもいいか。
たまに金があるとそんなことを考えるが、それで息子がひと月暮らせるのにと思う。48ヶ月の1ヶ月まかなえるだけで相当助かるよな、などとも考えてしまう自分も、けっこう窮屈に生きているんだなと考えるか、伸ばしきった羽は閉じようがないと考えるか。