レノン・ミュージアム

いつか行きたいと思っていたが、何とか時間が取れた。
レノンについて語ろうとすると、ちょうど自身の生き方の節目にも、選択にも絡む話がたくさんでてくるのでいずれ時をおいて。実は、いくつかのレノンのとらえ直しを行った。なかでも、オノ・ヨーコの芸術作品から、これまで考えてきた「イマジン」の価値を転換させる必要があるように考えるようになった。
オノ・ヨーコはボクお好みの前衛芸術家で、レノン・ミュージアムで公開されていた作品では、階段を上って天井までいくとそこに何か小さい字が書いてあって、虫眼鏡でよく見るとYesと読める。レノンの心を動かしたものを少し違う形なんだそうだが、まあ、そういうのをやっていたらしい。
なかには、「指示芸術」ってのがあって、作品のコーナーに「マッチを擦って火がつくところをみていないさい」などのような指示語を使って行う芸術なんだそうだ。例えば、「空に千の太陽があると想像しなさい」などという語調が、「イマジン」の歌詞に近いのだ。
「イマジン」の歌詞は日本語では「天国はない ただ空があるだけ 国境もない」という具合に訳されていたけれど、実は「天国はないと思いなさい」に近い語調だということだ。指示をしていって、そのうえで「簡単なことだ」とそれぞれの想像力が決して得意なものではないだれにも可能な力から、ちゃんとそういう世界が生み出せるのだ、そんなことを示しているのではないかということなのだ。
ボクには、想像力を人間的な力の根源と考えて、多くの出来事をそこに膾炙しながら括ってしまう癖が以前からあって、その意味では、今回のミュージアムでの「インストラクション・アート」との出会いは貴重であった。
もうひとつは、peaceについてである。ボクには、peaceとは、レノンが軽井沢で過ごした時間のようなものを思うのだが、いや案外そうではなく、warと同じように戦い獲得するものらしい。平穏ではなく、平和なのだ。actionを伴う行い、ふるまいがpeaceなのではないかと感じた。
もう少しはっきりと思考して、英語の上手な人にでも聞いてみよう。
そのうえで、ボクが共感し、何とかその心情の深奥に迫りたいと考えている軽井沢の生活を何と呼べばよいのかを考えてみよう。
ところで、ジョン・レノンというイギリス人は釣りをしたのだろうか。決してそうではないと考えるが、それはジョンにとってどうだったのだろう。そんなこともぼんやり考えてみたが、釣りなど要らないのかもしれんな。