イチローを語るときの非論理性

大橋巨泉は、善きにつけ悪しきにつけ、ボクの思想形成、とりわけ少年期のそれに影響を与えたはずだ。
思いこみと予断に満ちた決めつけと、日本だけ合理的な思想から取り残されているという、劣等感のをあおり駆け出したくなるような衝動を巧みにけしかける言動は、やはり、ボクのどこかにあるらしい。だから、もう完全に時代から置いていかれた人物なのに耳をそばだてることもなくはない。
朝、この人が、また、伊東四朗とのカラミ以外全くおもしろくないうえにバブルの頃でさえ浮き草であった吉田照美イチローについて話している。案の定、イチローについて話すときに、多くの人が陥ってしまう非論理性が漂ってきた。
イチローの悲哀は、日本をしょっていると勘違いしている責任感にある。徹底して自分にこだわるように思われるイチローだが、そこは間違いなく天才である前田が自分の技術の評価を自分でしか計らないのに対して、気の毒に、客観的だと信じているのか、記録とか数字とかで評価を得ようとしている。そのことでしか評価を得られないとイチローは語るが、その感覚に違和感を覚える人も少なくないことに気づきもせず、1本のヒットがどんなにうれしいことかと嘯く。プロ選手にとってその1本の安打はどうファンとわかちあえるのかにも価値の基点を必要とするのに、その点があまりにも意図的に鈍感である。稲葉との違いはそこにある。
そんなイチローが積み上げた記録を不世出のものとして、巨泉がほめたたえ始めた。挙げ句に言い出したのはこんなことだ。
イチローに欠点はない。あるとすれば、1番打者としてのナンバーワンでホームランが少ない。しかし、ホームランを打とうとすると200本安打ができなくなる。そして、25本は打てるが2割7分ほどだろうと。5番ならそんなものだと。
イチローに関する言説はいつもこんな気配に満ちている。その成績ならば松井秀喜で十分である。それでも、イチローなのはなぜか。それが記録なのだとしたら、200本安打の連続など、取り立ててだれもねらっていないだけのことだ。*1
たとえば、ピンストライプをまとうプレーヤーはワールドシリーズで道戦っただけで評価されると、多くの人々が語る。それゆえ、くたばれヤンキーズなのである。帰れ!イチローとなるまで徹底してみればいいのに。いや、イチローのこだわり方から類推するに、きっとプロレスなど観ない。記録など、リングには関係ない。あ、そこは今は止めておこう。
今日は巨泉ともあろうものですら悲しいことに記録という数字の積み重ねにあっさりだまされてしまうという現実に出会い、長嶋的なものを愛して止まなかった人の黄昏をみた。いや、案外、イチローが日本で記録を積み上げたら冷静だったのだろう。その沸き立ち方は間違いなくアメリカで活躍する選手に何かを期待しているものだ。それは、劣等感の払拭だろう。アジア的な自立をアメリカ的なものに立脚していた時代の空気を、短い時間にわっと感じた朝だった。

*1:いみじくも、吉田照美は、イチローに深く聞けばワールドシリーズに出たいというだろうと思うと話していたが、その引き替えが安打記録だったり、WBCとはあまりに切ない。