夢じゃない場所へ

このことを書きたくて仕方がなかった。いざ、その場にやってくると、多くのことばがどれを使っても全く陳腐にしか思えなくて、最初から退きたい気分になる。それほどに、思いを寄せていたのかと自分自身に驚く瞬間だ。
ニューヨークが歓喜に包まれることはおそらくはそうなるだろうと予想できた。その片隅に、ようやくその場所に到達できた日本人のスラッガーの姿があればいいと思っていた。本拠地では、DHの場所を与えられるだろうが、とにかくチャンピオンリングに到達さえできればと願っていた。
仕事の途中に、そんなものを見ることは許されないのだが、そおっとサイトを見て驚いた。4打点目の直後だったらしい。1打席目の完璧なホームランは試合を動かすには、まだそれほどのインパクトを持っていない。2打席目のセンター前は、あの2003年のワールドシリーズの満塁の好機に凡退した忌まわしい記憶を払拭した。この7年にあったことが、ボールと思える投球をしっかりとセンター前に運んだ。
その場所を望むものは多い。夢に達することよりも、夢を持ち続けることが難しいとはよく言われる。しかし、現実にその場所に立って、その場所が夢ではないことを感じられるもののそこに至るまでの道のりを思えば、果てしない苦労を忍ばれる。そう思ってもいたが、松井秀喜のコメントはシンプルだった。
野球がしたい、勝ちたい、いいプレーがしたい。
最初にバットやボールを持って遊び始めた少年の日と何ら変わりない、野球への憧れ、楽しみ、単純な願いが現れてきた。彼が望み続けたものは野球の高みの果てに必然的に到達する場所だったのかと、これまでの思い入れたっぷりにドラマを見いだそう、作り上げようと考えていた自分を恥じた。
誰かに認められようとか、そのことで自分のプライドを保とうとか、そういう面倒くさく、ややこしいものではなく、ただただ野球がしたい、そのことのために尽くしてきた野球人としてのプレーがあったのだ。
今日は、松井のことだけでいいと帰りのクルマの中で野球中継を聞いていた。
完全に巨人の負けゲームである。しかも、序盤のミス。アウェイ寸前の王手は致命的と思えた。7回に一瞬ほころびた流れが、併殺で断ち切られる。これで終わりかと思いきや、大道が田中賢介の頭上をセンチメートル単位で抜く。渾身の一打。ところが、山口が9回表に相手の4番に勝ち越しホームラン。勝負あり、である。
だが、終わらない。亀井の勇気ある一振りが、結局、阿部のサヨナラホームランを生む。わずか4球である。
こういうゲームがあるんだ。と思った瞬間、松井の表情を思い出した。つらくはなかったと涙ぐむ松井の奥底に見えたのものを何かのことばにしようと思った。スピリット。陳腐で、安っぽくって、俗っぽさが抜けないが、そんな言い方しか見つからない。亀井の一振り、松井の数年間に通底するものは、スピリット。魂なにか、精神なのか、いや、もっと単純に意気なのかとつなげたときに、わが母校のグラウンドに掲げてある「意気と力」と浮かんだ。
意気が力を生むのか、力は意気を支えるのかわからぬ。だが、そうしたものを失わないことをもって、ボクらはアスリートに夢を見るのかと、今日になってようやくつかめた。