ガラス張り

行政の仕組みがガラス張りなのはいいけれど、建物はどうしたものかと思う。バブルの余波で一気に設計されたころの建築は、頭でっかちだったり、非対称系で不安定感がモダンだったりしたのだが、とりわけガラス張りでできたようなものはどうにも危うい。バードストライクとか実害がある以外に、公共の建築としての設計思想があまりにも浅薄で安っぽいような気がしたのだ。
建築には文化がある。
例えば、安藤忠雄がコンクリートを主体に、人と接触するところは木を使う。コンクリートは石の代わりだとどこかで話しておられて一切合切を得心した気持ちになった。
ガラスの建築ではどうなのだろう。シースルーで描ける思想とは何だろうか。
一時期ずいぶん一面ガラス張りのような建築がはやっていたが、三菱地所が丸の内に復刻ビルを建て、東京駅の駅ビルが創建時の姿に戻されようとしているとき、復刻するのは建築の様式ではなく、建築に賭けた次世代への思想でなくてはならないと思う。
歴史を勉強していると、戦国時代がやがて数人の実力者によって収斂し、諸国が安定した支配層に掌握されていくとき、天守閣をもった平城というデザインが生まれ、徳川による幕藩体制が確立した時期に燃え落ちた江戸城天守閣は結局再建されなかった。建築は時代を映す。時代の思想を映すのだろう。
だがそこで、少し思いとどまるべきこともある。建築は町なのだということだ。
ある地区に行くと、それこそ張り合うように好き勝手な色合い、スタイルの住宅が建ち並ぶ界隈がある。新しく作られたコミュニティに、自分の金で勝手に家を建てるのに何の文句があるのかという有様である。どうやら、文化が廃れた結果、受け継がれるべき思想が欠如している。規則で枠をかけているところもあるようだが、残念ながらモザイクですらなく、離反する風景を「モダン」と捉えてしまう向きもあるようだ。
昨日、仕事で一日過ごしたガラス張りの建物は、人が安心して過ごせる場所ではないようだ。何もしていないのに、ぐったりして、珍しく朝8時30分まで眠りこけていた。