人間失格

中学生の時に読んだとおぼしき本をもう一度読み直す。
亡くなる年に書かれているという。だからといってどうなんだというところはあるのだが、当時、人間として失格と読んでいたかも知れないと考えながら読み返したが、案外そうではない。中学の頃のボクも、ちゃんと、何事もなさない、悲劇も失敗もエゴも貧乏も非道もなにもなさない人間ではその資格がないと、そう読んでいたらしく、嬉しく感じた。いっちょまえの書き込みなんかがある。
今になって印象に残るのは、この頃のドラマならかなり入れ込んで激しく描写するところも、実に端正なリズムのまま流れていく。これでは最近のケータイ小説なんかに慣れた若者には何が起きているかもわかるまい。女とくっついて情死を試み、生き延びて、また、女とくっついて出奔する。そんなことの繰り返しだ。唯一、激しく書き込んでいるのは内妻が出入りの若者に犯されて、そのことを引きずりながら女とくらしているあたりの煩悶くらいだ。
そんなこともあったので、太宰の本をまた少し探してみると、本屋で、太宰治傑作選「奇想と微笑」というのがあって、何だか気になって買ってしまった。ちょうど、先日もらった図書カードでもなければきっと買わなかったろうが、ふいにそんな気持ちにさせられた。
選者の森見登美彦とかいう人は、どうも小説家らしい。知らない人だ。「走れメロス」のパロディのような本も出した人らしい。何より、「畜犬談」が収録してあって、どうもこの話はつげ義春も気に入っている節があり、ボクも好きな話の一つだった。正統派でない太宰を並べたものというのか、退廃し零落しない太宰のストーリーテリングを楽しむ本という趣で、期待をしていたが、選者が不明なので、編集後記を読んだ。
走れメロス」を中学の時に音読か何かで聞かされて、「偽善的」すぎると感じ耳をふさいだそうなのだ。そこに共感してこの本を手にしたボクであったが、選者は何と、「走れメロス」が太宰作品のリトマス紙だという。ほかにもいいのではないかと。もっと心を広くして読んでいいのではないか。と考えるようになったというのだ。
ちょっと驚くなあ。そういう人でも小説家ができるのか。それも、太宰作品を読み込んだ後にそう思えるようになったのだという。そもそも、「偽善的」のことばが「走れメロス」には適さない。むろん、「友情」などどこにも書かれていない。透徹しているのは「正義」である。最後の一行を書きたいがために、延々と物語を紡いでいるのである。メロスの勝手な義憤が彼の勇気ある死をもたらすべきところを完全に裏切られた。勇者ですらなくなったメロスは、赤面するしかなかった。
中学の頃、ボクはそのように読み、のちに吉本隆明の本でそのことをしっかりと確認したのである。そのことでしっかりと反発したボクは、その後、国語の成績を激しく伸ばす。多くの人々がそのように読みたいと願っている文章をそのように解釈してしまえばいいだけのことだ、と一種の諦念に支配され、それでも闘うほどのこともなかったので、そのような解答を提供する作業だけを切々とこなしていった。
それはまた、どこか葉ちゃんにも似ているのである。
印象に残った表現がある。
酒は退廃と陰影の友である。アブサンなども出てくるが、焼酎を浴びるように飲むシーンは印象的だ。芋焼酎が数万円で取引される今とは、隔世である。こう表現している。

焼酎のよい特有のガラスの破片が頭に充満しているような陰鬱な気分

なるほど。日本酒で悪酔いしたときには、二日酔いの反吐の浴槽に浸かっている気分とでも書きたくなった。
文脈は時代に影響される。
時代を超越した表現もあった。
「科学的事実」を嫌悪している。例えば、世界中の人々が米を3粒器に残したら世界でどれほどの人たちを飢餓から助けることができるだろうかというような話に「科学の幽霊」ということばを与えている。今や、エコとかいうのが大好きな人々は「科学の幽霊」に取り込まれている。三粒の米を回収し、集約して何かに提供することなど不可能なのに、そのようにいわれると合理性があるかのように思えてしまうのだ。
太宰をして。
ボクは、機械として好きだからとか、燃費がいいからとか、そのような理由でプリウスに乗る人はそう嫌いじゃないのだが、地球環境のために乗る人は徹底的に嫌悪している。環境に優しいLEDのイルミネーション。手に芳香剤を持って自宅まで歩く羽目に陥ったレジ袋の廃止。毎年出てくるリサイクルフリース。
そうか、「科学の幽霊」だな。古いことばだが、似非エコロジスト、地球環境主義者たちをこういうのでやつけたろう。
「奇想と微笑」の方はこれから読み始める。
選者はともかく、たまにそういう文学もよかろう。