検事の謝罪

冤罪事件の公判のニュース。
この事件はすでに冤罪が確定的なものを法的な手続きのために追認するような異様な裁判。すぐに結審しても良さそうなものだが、そうはいかない。冤罪がどのようにして行われ、刑が執行されてしまったのかを公的に暴くにはしっかりとした裁判を行う必要がある。
今日は、取り調べにあたった元検事が証言台にたった。この元検事の取り調べの時に、「自白」から否認に転換したらしい。被告(といっても無罪は確定的なのだが)は元検事の謝罪を求めている。しかし、元検事は結局謝罪しなかった。
取り調べのテープが流されていたそうだが、この取り調べは当該の事件よりも関心はすでに別件を描くことに移っていて、元検事にとっても当該事件の自白撤回は想定外だったようだ。当時最新の技術であったDNA鑑定の結果まで出ている。
被告の感情的なことばは一定の理解ができる。同時に煩悶もある。
元検事の個人的な資質とか、その当時の心境とかはとりあえず外側に置いておいて、彼が公権力の下組織的に行った行為において、深々と謝罪するということが加能なのかどうかだ。個人としては十分に頭を下げ、お詫びのことばを吐き出したいだろう。しかし、それは加能なのだろうか。組織的に、被告のとらえ方は決まっていたと思うのだ。そのうえ、DNA鑑定によって証拠が挙がっている、と思われている。その精度についてはまだ曖昧だったと認識してはいたようだが、その程度の憶測は、例えば、クライムサスペンスにはよくありがちで、おおむねこのくらいに絞り込まれてその中で状況証拠に当てはまるのはあなただけというのをたくさん見ている。稚拙ではあるが、すでに送検されている段階で、ボクがこの刑事だったら、被告の真実の自白をどう受け止めただろう。そして、職務を遂行したものとして、当時執行された公的な権力を背景にして謝罪できただろうか。
同時に、問題はそこだけにあるのかとも考える。
捜査があった。検察による起訴があった。何よりも裁判が行われている。再審制度にも何らかの課題があるのだろう。
被告のことばのひとつひとつが自分の心に突き刺さるように感じた。報道は元検事の態度を非難しているようにも。それもまた、つらかった。