ねじれ

叔父の法事で親戚でいろんなことを話していたら、「三人寄れば文殊の知恵」という小沢さんの言い方に、母も含めたおばちゃん連中が「腹案っておかしいよね。ちゃんと言わないのは卑怯だ」などと話していて、民主党が仕掛けた政策選挙というのが、そのあたりまで浸透しているって感じた。それでも、菅さんの顔が嫌いとかおばちゃん風なのだが、無利子国債の話も出て来て、ほおと思う。
最近、ボクが住んでいる町でも選挙があって、その選挙では、未だに、だれそれに頼まれたとか、あの人のここが好き嫌いのような人物選挙をしている。おそらく、地方選挙はどこでもそんなものだろう。
ボクはこういうことを「ねじれ」と言っておきたい。
国政レベルでは政策云々を言いながら無駄遣いがどうしたこうした、政治と金をきれいにしないと言っている人たちがこと生活レベルになると、ここの溝をきれいにしてもらわなくちゃと議員におねだりしている。そのおねだりが、いや、ボクはそれをモノモライと言っているんだが、そういうものが積み上がって数十兆円になっていく。ひどいのは、隣の市町村にあるからうちにもそういう施設が欲しいというモノモライで、おかげで同じようなものがそこらに林立するという不具合さえある。都道府県、市町村、地域のそれぞれのレベルでそんなモノモライが発生している。
県庁所在地の市あたりは財政的に豊かなものだから大きなホールなんかをもっていたりするけれど、そのごく近所に都道府県立の似たような施設があったりする。まるでお城なのだ。権威を示すために天守閣を建てているようなもの。
幸いにして、国政は時間をかけて政策的な決定にみんなが注目するようになるつつある。財源の地方委譲、一括交付金などといいながら、相変わらず政策的論争も、政策的な選択もない、場合に寄っては政策のないところに財源を預けていいのだろうか。現実的に、一家庭に多くの補助金がかけられていてもそのことを意識せず、現金でやってくるものを即物的に有り難がる。そんな光景をたくさん見てきた。
同じようなことが市町村レベルでも起きてくると、ボクにはそう思えて仕方がない。地方議会が変わることが、まず、求められているが、実のところ、変わるべきはその向こうにある主権者のモノモライ体質であると思う。ある市町村議員は、相当に問題意識を持っている人だと思っていたが、いざ議員になってしまうと地域代表の顔をし始めた。議会は地割りの場所じゃない。何を背負っているのか、何を背負わせているのかをみんながしっかり考えられるようになるには、それは、公民教育*1もひとつのアプローチだろう。

*1:中学校の公民じゃない。公民館の「公民」。生涯学習ではなく、生涯教育としてしっかり成人に対する教育活動を行うべきだろうと思う。池上さんにへーとか言っていてはいけないのだ