地水火風

「声に出して読みたい日本語」という、もう随分前のベストセラーをトイレの本にした。時々に、こういうことばの響きがあったのかと思い出したい気持ちがあって。
そこで、宮沢賢治について「地水火風」を能くするとあった。そうか、そういうことばがあるのか。以前にも読んでいるんだけれど、よく記憶していない。
学校の理科の授業がつまらなかったり、おもしろかったりするのは、そこだろうと思った。
科学=理科とのぼせあがっている連中もいるんだけど、科学とテツガクはよく似た場所にある。テツガクは知を愛することであり、問いかける態度を表している。一方、科学は合理的に考えることを求め、そのための理詰めを楽しんでいる。
水は100度で沸騰すると、子どもたちはよく知ったかぶりをする。この間違いには、多くの大人も気付くまい。科学のようなことばを用いることで、わかったような気になっているのだ。
地水火風を考えたとき、急にうつろいゆくかたちが見えてくる。そちらが本当の科学のような気がした。

思い立って、近所の海岸にでかけてみると、たくさんのヒスイ探しの人や釣りの人たちがいた。海岸を眺める。そうなんだ。こうやって、自然は動くのだ。まるで、科学の対象としてスタティックなもののように描いてしまうから、100度が先行する。水がそのままではある一定の温度以上にはなれないことを知る前に、100度が示される。そういうのを科学とか、学力というのだろうか。
乾いた砂利を少し掘ってみると、しめった砂が出てきた。目の前にあるものの背景に何があるのかを描くのは想像力の分野だけれども、科学やテツガクをしっかりとした形で持っていないと、その想像力が機能しない。

学力とは、そうした想像力と不可分でなくてはならないのに、知っていることの質量にとらわれて、物事をつかまえる力を忘れてしまっている。見えないものさえ信じられるから人なんだ。