スキー100年

1911年1月12日、新潟県高田の金谷山で、オーストリア・ハンガリー帝国の軍人フォン・レルヒが軍人相手にスキーの指導を行った。当時は、踵がフリーに動き、一本杖のスキー。最初に発したのは「メトゥレ・スキー(スキーをはきなさい)」というフランス語だったという。
やがて、スキーは積雪地帯に伝わり、ほどなく、祖父がスキーを履く。スキーでふるさとの山々を歩き回った。妙高の笹川氏が、裏山で豪快なテレマークを見せたというのもこの頃のことらしいし、給料数ヶ月分というカメラをもって山歩きを始めるのもそういう時代のことらしい。
ほどなく、オーストリアハンネス・シュナイダーが、アルペンスキーの祖と呼ばれるツダルスキーのスキー滑走術を伝え、道具も技術も一気に進化した。
トニー・ザイラーの活躍で一気に大衆化したスキーに、祖父の娘を嫁にした父がのめりこんだ。祖父がそうであったように、自分自身の向上や楽しみもさることながら、多くの人々子どもたちがスキーを楽しむことに力を注いだ。
両越国境の田舎町にスキーの華が開いたのは、間違いなく、祖父、父の功績も数えてもらえるだろう。
引っ込み思案で臆病者のボクが小学校に上がる前からスキーを履いたのは、環境だったろう。運動一つできないくせに、スキーだけは何とか人並みに、十人並みにできた。それ以上でも、それ以下でもないのもまた、二人のおかげだろう。この人生にスキーがなかったら、ボクはこれほどの生き方をしていたろうか。
高校生のころ、同級生だった妻とはそんなに話をしたことがなかった。彼女にしても、ボクはどことなく男らしさに乏しい見窄らしいただの文学青年にしか見えなかったろう。ところが、学校のスキー実習で見慣れない男がそれなりにスキーをしている。誰だろう。どうやら、それはボクだったらしい。ボクは彼女がミッキーマウスのトレーナーを着て、白いサロペットを身につけていたことを奇妙なことによく覚えている。中島スキーセンターの地下で、何かを話した記憶が残っている。スキーがなかったら、ボクたちはともに人生を歩んでいないかもしれない。
スキー100年。思いは募る。
何だか、たまらず、15年ぶりにアルペンスキーを履いた。テレマークも、クロカンも、実は、長靴スキーも倉庫から発見したので、今年は全部やってみる。三峯にも行かなくちゃ。ボクのスキーの原点、そして、祖父と最後に滑った場所である。おそらく、そのときのものと思われるスキーを、祖父の家からもらってきた。父の板といっしょに飾ってある。
今年の年賀状に使った絵。

一番右は祖父のスキー。カンダハーの単板。富山県内で作られたらしい。次が、父の小賀坂。これはボクもよく使った。HOPEのセフティビンディングが付いている。エッジもマイクロエッジになっている。そして、今のボクの主力、K2のワークスティンクス、テレマーク板だ。左端は、20歳の時に買ったクロカン板。豪雪の神通川の河原で遊んだ。30年連れ添った板。ストックは、祖父の六角貼り合わせのストック。
亡父の命日でもある今日。明日からスキーは次の世紀を歩み始める。その日は長男の誕生日。ボクの過ちでスキー場で大けがをさせたことがある。そういうものも全部含めて、ボクはスキーを背負っていく。できることも、委ねられたものもないのだが、この場所から生き方を端緒を拓くのだ。そうしてきたし、そうしかできない。
シーハイル!