朝日新聞を読めない

震災以来、朝日新聞がちゃんと読めない。
記事の背後にある得体の知れない焦燥感みたいなものが、いや、それはある種朝日の正義感でもあるんだけれど、そういうのが濃いばかりのラーメンを出し、尊大な亭主がやっている繁盛店の居心地の悪さみたいにねっとりと背中に絡んでくるようで、しっかりと事実や内容に向き合えないのだ。朝日新聞をずいぶん長いこと読んでいるが、こんな気持ちが増大するのは、あまり経験がない。
そこにある空気は、「他人事感」。どこか遠くから自分だけ安全地帯にいながら「支援」だの「救済」だの「責任」だのを叫んでいる。どこにも切り込んでいく感じがないのはそのせいだろう。
4月1日から新紙面になった。取り立てて何も変わらない。それはそうだろう。新聞にとっての生命線は読みやすさ以前に、記事である。ジャーナリストの魂をどこかに売り飛ばしたのだろうか。
投書欄に、どうして深夜のテレビを止めないのかとこの時期に平気で掲載されていた。若い人の投書だったが、どうして止めないのか朝日新聞を読んでいるとそういうこともわからなくなるという見本だと思った。身勝手な正義感は、偏向した社会を生むぞ。