木嶋ナントカという人の裁判

同世代のmくんの事件やナントカolの事件、コンクリート詰めの事件、さらには、最近の二股くんの事件ほどには騒がれないのは、その裁判の赤裸々な内容と、被告が用いる言葉の露出を避けているからだろうか。
今朝の朝日新聞の書評で、この裁判のドキュメントが2つ紹介されている。
いくつか、考えさせられることがあった。
まず、裁判所の法廷という場所で、被告はいかにもぬけぬけと言い放っているらしい。法廷が、司法が、裁判員制度の意図通り、市民レベルに近づいているのだろうか。卑近でなければいいが。
次に、そこに死というリアリティが不足している。法廷に限らない。社会から死が隠匿され、隠蔽され、例えば、子どもたちの体験から遠ざけられて久しい。テレビゲームの中の容易な死が子どもたちに悪影響を与えているなどと、わかったようなことを叫ぶ人は少なくないが、何より死が眼前にないのだから、刷り込みはいかようにも起きる。虫ひとつ手でつぶさない。自分が食べているものが生きものの死体であることを受け入れられない。死は記号になっている。数人まとめて死ねば大事件。個別なら報道にもならない。この斑は何だろう。
最後に、今になってようやくこの事件のことをわかりかけている僕は一体何だろう。最近、どんなことに興味をもっているのだろう。好奇心が失われているのか、事象や対象について思考することさえ面倒になっているのか。
本屋で、吉本隆明の追悼本でも買って、徹底して考え、表すことを少し思い出そう。