いじめられている君へ

朝日新聞が得意のキャンペーンをしている。
いじめられている人の語りかけが続くが、いじめている君やいじめていた君からの発言はない。いつも、こういう事件のときに感じるディレンマだ。いじめられる側には、取り立てて根拠がなくても、いじめる側には、確実に理由がある。何かがひかかっているのだ。みんながいじめているという状況的な理由もあるはずだ。その立場から、何か、このもどかしさを変えることはできないだろうか。
小中学校の記憶を辿ると、僕には、たぶん、原稿用紙を何十枚埋める自信がない。おそろしく記憶が希薄なのだ。きっと、何かで封印したのか、捨てたのかわからないが、学校で何かをしたという記憶が薄い。現れるのは、いくつかのシーンで、わずかな場面展開で終了してしまう。思いがけない記憶さえもないのだ。
記憶は後から増強されたり、何かのきっかけで浮かび上がることもあるが、きっかけになりそうなことさえ、杭でも打ち込んだみたいに決まり切って、音楽室の前の信号や図工室にあった七宝焼きの窯など、堂々巡りするみたいに決まったアイテムと登場人物を一巡りするだけで終わってしまう。この物語の薄っぺらさは時として、自身の仕事の妨げになり、逆に、屈託ない日常を作り出す力にもなっている。
本当にどういうことなのだろう。一度、ノートにでも書き出してみるか。自分がレプリカントじゃないかと思うほどに何かがすっぽり抜けている。小さい頃の強烈な記憶にずっと苛まれながら、そのことを一つの覚悟として受け入れざるを得ない僕には、それも相応か。
沸き立つ教室は、どうしても、温度にむらが生じて、そこに粗悪な感情が生まれる。常温の教室。僕に哲学があるとすれば、そんなところだろう。盛り上がりなどに基準軸を置くのは、バブルで懲り懲りしたんじゃないのかな。キンキンに冷えたビールも、熱々のギョウザも、深い味わいを見つけにくいものだ。