大西さんの写真

天文学者の大西浩次さんの写真が、吉田科学館に展示されていた。天空の樹、何かうろ覚えだが、そんなタイトルだった。
一本の立木の背後に無数の星がまたたく、そういう写真を何枚も並べてある。一目で戸隠とわかった。どうしてなのかはわからないが、戸隠で出会った木なのかも知れない。山の風景とはそんなものだ。
大西さんがどうしてそんな写真を撮ることになったのかが書かれていた。天文写真はそういう人が専門に撮影するもので、自分はいつか見たような星空を撮るのだと、意訳するとそんな内容だった。
はっとしてたたずんだ。
僕は、どんな写真を撮っているのだろう。人に見せたり、展示したり、コンクールに出したりする写真ではない。何かに向けてシャッターを押すことが好きなんだ。文章を書くのと似ている。後で見るかというとそういうこともない。撮るだけだ。撮るという行為だけが先行しているが、それは、いわば、まなざしを明確にする営みなのだろうと思っている。
僕らは案外いろんなものを見ていて、あふれるものの中で凡庸なものの中から価値を拾い出している。その価値をはっきりと意識するための仕草がファインダーとシャッターなのだ。撮ったものを確認する必要も、ブログに上げる必要もないのだが、逆にそうでもしないと、吐き出された表現の落ち着く先がないようにも思えて、取り立てて、目的も欲もなく、ネットで晒している。晒してみるといくらか、価値の変容も見えて、それが少し楽しい。
自分の写真の原点は、おそらく、安部公房にある。都市への回路とかいう本にあった写真だ。人の生活の痕跡、意志の残滓のようにも思える、そんな風景を切り取った写真だ。そのせいだろう、無垢のものにカメラを向けることをあまりやらない。何か人の営為が見えるものが好きなようだ。植物も撮るが、むしろ、そこは図鑑である。後から、整理できるように撮影する。踏みにじられた花の方が、おそらく、対象になる。
最近は、古いレンズを使っている。味わいがあるというのも、それはそうなのだが、しっかりとピントを合わせるのも、意図がはっきりして、いい。自分でわからずに表現するのが一番面倒なのだ。
一度、はっきり写真の旅でもしてみようか。どこがよかろう。いや、それを考えるのが面倒だな。行き当たりばったりでいい。元々、そういう生き方をしている。