体験

id:oozoraさんが学校の宿泊学習についてその変節を書いている。
ある学校の宿泊学習をいっしょに組み上げた人なので、彼が学校現場で感じている実感が興味深い。
教育とはすべからく体験的であるとボクは思っている。地球が太陽の周りを回っているなど、そんな形而上学的なことを知識として、夕焼けを見つめることを体験として後者を排除するなら、私たちは五感を廃棄せよと言われているようなものだ。
自然数って何ですか?と学生さんや、教育熱心な人に聞くことがある。「1以上の整数」と答える人が多くて笑ってしまう。同様に、円の面積は?と聞くと「半径×半径×3.14」と答える。それが、学習の成果で学びの終着点か。そんなものを学力とは言わないぞ。
円周率とは何かを「科学」という方法で問いかけてきたのが科学で、「哲学」で問いかけ続けたのが「哲学」である。奇妙な書き方になったけど。「問いかけ」の実存とは、いわば体験を支えるもの、である。そこから離脱した知識は、言葉にもならず、文字でしかなかろう。
単純に言っちゃおう。枕元のペットボトルが氷結する。そういうなかで人は眠れるのだ。これが生き方の幹を作れるかどうかは、その体験をどのように経験へと止揚できるかにかかっている。学校の仕事は、その弁証法的手法にあるのだ。にもかかわらず、多くの学校は、体験をまるで給食のように与えることで枝葉が繁るように考えてしまったのだ。
ここからの転換は、さて、どんな戦略が必要か。
もっとも、学校はたいして戦略をもたないので、結局、何にも変わらないのかもしれないな。
ところで、自然数って何か簡単に言えるかな。